繪畫美学[二]
服部嘉香
『みづゑ』第八十九
明治45年7月3日
藝術概論の章に於いて、又、詩論の章に於いて、藝術の藝術たる所以は模倣にあるか又理想(此idealityを單に理想と譯しては少し不徹底である、委しく言へば對象を理想化する力を意味してゐるのだ||譯者)にあるかといふ問題は或る範圍まで論究しておいた。然し片手落ちな模倣説は、恐らく彼の如何なる藝術よりも、造形藝術に屬するものに當て嵌める場合に、明瞭な意義を附帯して來るに過ぎなからう。繪畫に於ては、繪具を用ふる爲めに、畫家は「形」と「色」とを巧みに融和する、從つて「形」と「色」とが互に兩者の優れた特色を相助けて、その結果として何んな自然を描いてもその模倣では無くて、其の解説ともいふべきものが出來上る。風景畫||かの摸倣説は、ともすれば風景畫に於いて其の立脚點を求めやうとする||は、單に外界自然の模寫である限りは成功したものとは言はれない。所謂「海にも陸にも曾て現はれなかつた光」を以て自然を飾ったものが、立派な風景畫なのである。
そこで吾等は、今、繪畫が如何なる範圍まで模倣から生れるか、又如何なる範圍まで模倣以外に立脚するかを調べてみたい。けれども、?に注意すべき事は、風景畫にあつても、省像畫にあつても、繪畫の主要な魅力及び根本の勢力が必ず「暗示」に起因するといふ一事である。自然の再現たる風景畫の魅力は、描がかれた風景そのものゝ妖力と同じもので無ければならぬ。例へば、海や空の美を解し得る人に對して、海や空の特に心を惹く點は「深さ」と「廣さ」との暗示である。從って燦燗たる光の下に見た近景の美と、朦朧とした光の下に見た遠景の美とは、同一の暗示力を持つてはゐない。ラスキン氏は更に次の事實について吾々の注意を促がしてゐる。即ち風景畫家||時として省像畫家でさへ||は、出來る限りは「空にある光ばかりでなく、空から放射する光をも」捉へて、光彩ある背景を吾等に示すものであると。此の事實は、單に描かれた風景畫よりも、暗示された風景畫に高い價値のある證據となるのでは無からうか。