記憶に殘れる水彩畫(二)

三宅克己ミヤケコッキ(1874-1954) 作者一覧へ

三宅克己
『みづゑ』第八十九
明治45年7月3日

 三輪さんに就ては少し未だ御話致したいことがあります。私はワツトマンと云ふ紙は三輪さんから敎へて貰つたのです。或時三輪さんは水彩畫の紙を買ひに行くとて銀座の杉井と云ふ紙屋に態々買ひに行きました。其時は勿論種類は一ッしか無い。一枚の價が二十八錢と聞いて私は實に吃驚しました。大變高價な紙もあればあるものと心の底から驚きました。その頃はその年の紙などは到底ありません。大概新しくても先づ一昨年位のが多かつた樣です。若し昨年の紙などが手に這入れば例外位に思つて居ました。
 三輪さんはそのワツトマンを畫板に水張りもしないでハンケチの箱の上繪にある樣な美しい西洋婦人を模寫されました。成程こんな美しい繪を寫す時はワヅトマンを使ふのだなと何か一ッの新しいことを覺えた樣に得意でした。三輪さんに葉書位の大きさのワツトマンを私に一枚呉れました。私は非常に喜んだものです。紙を嗅ぐも一種舶來の香がしてヅクヅクする程嬉れしかつたものです。私はこの紙に何を描いたかと云ふとインキ壷を寫生しました。恰で浮上つて、本物を觀る樣な色が出たと鼻を無闇に高くしたものです。
 その後私は小學校を卒へて明治學院に入學致しました。明治學院に入學してからも繪に段々好きになる許りで時々三輪さんの處に繪を見に行つたり話を聞きに行ったり致しました。すると和田英作君が矢張私と同樣明治學院に居られました。某日偶然に遇ふて互に繪の好きな事を語り合ひ御互のスケツチブツクなどを見せ合ふたものです。和田君は以前に大阪に居られたことがあるので彼地の風景が諸所描いてありました。
 

枇杷柴田節藏

 此頃には寫生など試みる樣な洒落た人は餘り多くありませんでした。多く無いと云ふより未だ實物を手本にして描くと云ふことは全く知ら無い人々が多かつたのです。然るに和田君は既う立派に寫生畫をスケツチブツクに澤山試みて居られた。これには私も驚きました。且つ新に一人の友人を得たので私も悦び休日には何時も一緒に連立つて何所と無く寫生に出懸けたものでした。
 和田君のスケツチブツクの繪で未だ記憶に殘つて居るのは大阪の安治川を寫された畫などです。川に船が浮いて向河岸に煉瓦の大きな家と烟突が見えて。それから黑煙を吐いて居ろ圖でした。私は何だか實景を眼前に見る樣な感じが致しました。私もその時から益々寫生狂になりまして何でも和田君に負け無い樣にしなけれはならぬと一生懸命に勉強致したものです。
 某日和田君と同道で澁谷村に寫生に行き。一軒の農家を寫生しました。和田君は家根にセピヤを使うて古い色を好く出しました。私も眞似ては面白い色を出さうと工夫しましたが思ふ樣には奈何しても行かないで殘念ながら止めました。私はこの時代には日曜日が一番樂しみで終日寫生に行つて一枚仕上げて了ふと又次の日曜に奈何な繪が出來るかそれを描くのを豫想して樂むだものです。此頃には西洋人が好く寫生に來たものです。芝山内に行くと頻に水彩畫の寫生をして居るのを見受けました。朱塗りの山門などを丁寧に寫して繪とは思へぬ樣に巧に寫生して居るのを見て何時も感服したものです。唯譯も無く其傍に居るのが既に何とも云へ無い懷かし味を覺えたものです。
 その後私は和田君と前後して大野幸彦先生の畫塾に入門しました。先生の門下には揃つて俊才がありましたが私には矢崎千代二君の繪が一番深い注意を與へました。油繪の肖像などは最も得意とされて居ましたが水彩畫をも盛に描かれました。私は此時初て水彩畫の本式の描法を知りました。矢崎君は軍艦の繪を能く描いたものです。軍艦と云ふと繪草紙屋の店先にぶら下つて居る石版畫を聯想して餘り難有く無い樣な氣持がしますが。矢崎君の繪は決してそんなものでは無かつた。夕陽の海上で白浪を突て勇ましく軍艦の進行して居る圖。或は靜かな灰色の朝軍艦が港内に碇泊して居る圖とか皆それそれ繪として深い趣味が現れて居ました。
 矢崎君が何故軍艦の畫などを圖題にされたかと云ふと。矢崎君に幼少の時から橫須賀に住はれて朝夕軍艦に親しまれたからである。他の人が眞似ても決して面白く出來無いのに矢崎君の筆に上ると直に生きたものになる。これは致方の無い譯だが又矢崎君の天才たる所以でもあるからだ。それから矢崎君の鎌倉江の島附近の寫生畫中には最も記憶すべき佳作があつたと覺えて居ます。此頃は別に要塞地帶區域内寫生禁制の布令なども出て屠なかつた時だから誰でも自由に寫生することが出來るし又今日の樣に風景も荒されて居ず面白い圖題が至る所にあつたので寫生のグラウンドとしては至趣適當な場所でありました。矢崎君は東京から橫須賀に往來する毎に何時も下車しては寫生されたものでした。

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