續三脚物語[四]
鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ
鵜澤四丁
『みづゑ』第八十九
明治45年7月3日
丁度初夏の節になりましたから、過ぐる年に松戸へ寫生旅行を主人等がした噂をして見ましやう。この寫生旅行は前にパレツトや繪箱のお噂の中でちよいよい申上げた同じ會で、第四囘目と覺えて居ます。そして大下先生が東京へ引移られて、本誌發刊の計畫を立てられた頃です。それで寫生會は常に靑梅附近でばかり。催して居たのでしたが、たまには變ッた處も妙であらうといふので、大下先生が發起人となられた。そして常に山や川ばかり見て居る目には、平地の泥川も趣が變ッてよからうし、第一に江戸川の鯉が食へるなどゝ大下先生が主人を大分おだてこんだものです・折惡しく其當時主人は膓か病んで居たが、折角の催しに加はらないのも殘念であるといふので、一行に加はる事にした。幸に病氣が輕くなッたので、繪箱の中へ膓の藥などを入れて、和服で出掛けた。それから皆々上野の停車場で落合ふといふ約束でした。豫定の時間になうと筒井年峰先生が見えた。この方は例によッて寫眞器を肩にして、三脚は持ッて居られるが、我々とは少し違ふ役目の三脚子です。それから大下先生が見えた。續いて巖谷夾日、太田南岳の二先生が見えた巖谷小波先生が見えぬ、丁度詩人の野口寧齋先生が死去せられたので一行に加はれぬといふ事でした。それから柳川春葉、西村渚山の二先生も差支があツて來られぬ。それから千葉紫草先生が見えた。皆々三脚や繪箱を携へて居られるのに、千葉先生は何も持ッて居らぬ。「今日にきまりが惡いから繪箱はぬきで、スケヅチブツクと鉛筆だけです」とすまして居られる。大下先生が「そいつは頗る氣付いた御趣向で」などゝいふて居られるときに成田行の汽車が出るといふので例の警手の大きな聲が響き渡るさあ石井柏亭先生が見える筈だが、今に見えぬ、差支でも出來たかしらん、免に角列車に乘込まうといふので、主人等も汽車に乘るときは急くものと見えて、改札口の柱へ僕の頭をこつんと打附けて行く。中にはプラツトフオームのたゝきの上へいやといふほど振落された三脚子もあつた。ほんとに好いつらの皮だ、汽車へ乘込むと筒井先生が寫眞の箱から繪具箱を出して、「今日は口惜しいからこれを持ッて來た。何時も人の寫すのを見て居るばかりだから」。汽車に增々走る、やがて松戸驛に這入らうとして江戸川の鐵橋を渡るころは景致が展開して、遠く鴻の臺の森淡く、風に孕んだ白帆の數々、靑葉若艸の兩岸「むゝものになる「あすこらが好ささうだ」「それ四ッ手網がある」「可いな」「あすこに渡船場がある」と先生方口々に感嘆の聲を發して居られた。さて松戸へ著くと皆どやどやと下りて停車場の通りから町へ出やうとすると、渡から年增の女が追掛けて來る。「もしもしお連樣がお待申て居ります」「はて何といふ人か」「石井さんとかお仰有います」「柏亭君だ」「それじやこゝに休むとしやう」引返して行く、藤棚のあろ茶屋で果して石井先生が居られた、先生は一と汽車早く來られて、こゝに待つて居られたのでした。丁度晝であるし、こゝで晝飯にしやうと賴むと、それから仕度にかゝるといふので大分に暇をつぶした。飯は強し肴は筍の固いのと來たには膓胃の惡い主人が頗る閉口して居ました。さてこゝで松戸の宿屋は何處が好いかと聞くと町の中程で××屋といふのが好いでせうといふので兎に角そこへ泊ることゝして邪摩物などばそこへ置いて行くとしやうとこゝを出掛けた。町へ出てから四五丁も行くと××屋がある。そこへ寄つて今夜泊ることを約した。そして鯉はありますかと大下先生が聞くとおあいにくさまときました。おやおやと主人等は大分力を落したやうでした。それからこゝを出て江戸川の渡船を渡つて、土手の下の櫻の靑葉の下へおのがじしに僕等を据えたのでした。こゝは綠りの草原に入江樣の靜かな水があつて、對岸の新綠の森に處々町家が點在し、川には白帆の數限りなく順風に乘じて河上へと上つて行く。山ぱかり見馴れて居る主人等はこの平地の川の景色が非常に目新しいのて喜んで居ました。大下、太田、巖谷の三先生と主人が一團となつて居ましたので、こゝへ筒井先生が寫眞のレンズを向けられた。そして巖谷先生にもう少し前へ出てくれ給へといふと、横になつた木の止に跨つて居た先生が「よし來た」と進む、とそのはづみで繪具箱と畫板を振落してがらがら。石井先生が見えなくなる、筒井先生も見えなくなる、尤も筒井先生のは爲眞器であるから、自ら寫す方面も違ふし、一寸三脚を立てゝピントを合せれば一照するのはほんの一刹那で出來るのですから寫生と一しよになれないのです。後で聞くと石井先生にまた川を渡り戻って、處々をスケツチされたとの事でした。そこでこゝの寫生が了ると金町の方へと出掛けました。これからはたゞ蹈査する事にしやうと、そして好い處を見付けたら明日ゆつくり筆を執らうといふのでした。金町の煉瓦製造所を通り越してとある沼のある處へ出た、こゝの沼が馬鹿によく見えた。こゝはきつと朝が可い、明日の朝寫すとしやうと喜んで引返した。下矢切りの渡船を渡つて歸る途で土手の下に水のある處がある。こゝを全速力でやらうと初めたが、日は落ちかゝり繪具は乾かず、止むを得ず半製でやめて歸る事として、江戸川の堤防を松戸の方へと辿つた。宿へ主人等が着いた時にはもう燈がともつて居ました。石井先生にとうに歸られて今風呂を召していらつしやるといふ。お後をお風呂にといふので主人等が換はる換わる遣入る。皆々二階にごろごろして居ると太田先生の友人でこゝの中學に敎鞭をとつて居られる柴田先生が訪ねて來られた。お土産にとビールを牛打贈られた。病人の圭人が折角の御馳走を思ふやうにやれぬと殘念がつて居りました。一行のうち多くは甘黨で、太田、石井の兩先生に主人位がやれる方でありました。今夜はこの頃流行して居た繪はがき交換をやらうと初めた。一題が「五」といふのでした。開巻すると五大堂、五行本、五大力、五爪の龍、五月場所、功五級、五ッ紋、曰く何曰く何と數限りもない。なかなか奇抜なものも澤山にあつた。石川先生が、大下先生の長い足を折ッて投出して居る處を誇大に描いたのが大喝采でした。これが了るとさあこれから俳句だ俳句だといふ。句は寢ながらにしやうと寢てしまつた中に筒井先生は種板の差換でこれからだと暗い別室で夜具を引被つてこツこツやつて居られる。同じわくへ二枚入れてしまつた、打碎くより外がないとこぼして居る。翌朝目を覺ますと、千葉先生が寢て居ながら、「オイ南岳、貴樣の顏は眞黑だぞ」といふと太田先生さうかと寢惚け眼で、そッと顏へ手をやッて「やつざらざらする」と頻りにふいて居る。其實何もついちや居ないが昨夜寢てから太田先生の顏へ墨を塗ッてやらうと話したのを千葉先生が次の座敷で聞いて居たと見えるのでず。主人が起きて窓を明けると朝霧が小山を包むで、言知れぬ趣があろ。こいつあ可いなと主人は手帳を懷にし出て行かれた。宿の裏は泥川で、もやがかかつて幾つとなく土橋などがあつて實に捨難い處だとスケッチしたと後で手帳君から聞きました。さて朝飯を濟ましていよいよ出發となると、太田先生などは例の朝寢坊ですから、遲く起きて、シヤツが見えないといふて騒ぎだした、もう出發といふ矢先だから隨分先生狼狽して、漸く見付て大分皆樣にひやかされてました。昨夜ののこりのビールを途中で抜かうといふので各上戸黨で一本づゝ持つことにした、中にも千葉先生はビール瓶を二本繩で結んで首へ掛けた處は頗る珍妙な形でした。渡船場へ行くと、朝の江戸川の景色がなかなかに可い、しかし昨日見た沼がよいといふのでそこへと急いだ。後にこの渡船場の所を繪ハカキにして巖谷先生が主人の處へ送つて來ました。對岸へ[行が上ると船頭が「もしこんなもの(三脚のこと)いらないんですか」「ほい忘れた」「いらなければ便利なものだ貰つて置きたい」「どうして商賣道具だ」同僚三脚子がとんだ迷子になる處でした。それから例の沼へ行くと昨日の午後に見たとは大分違つて居る、沼がまるで明くて森なども薄つぺら、午前の光線では到底ものにならないと皆々落膽しました。處々沼の圍りを廻つて見たが面白い處がない、しかし餘儀なく一枚を描いた、大失望々々々それから金町停車場へと行く。この沼へ來る前に、とある土手の上の生垣のある處で紀念寫眞をとりました、かくいふ僕等三脚子も殘らず据えられて寫つたものです、それから別れた筒井先生が小笊を提げて、大聲に「素敵な寫眞が出來たぜ、これを引伸すのだが、旨くいけば可いが」と。先生は江戸川べりを辿つて小鮎の四ッ手網を寫したのなさうな。そしてそこでとれた小鮎を一升買つて來られたので提けた小笊はそれであつたのです、家へ歸つてこれをてんぷらにすると喜んで居られた。やがて汽車を上野に下車しますと千葉先生「どうも東京は暑い」 (完)