太平洋畫會展覽會

坂本繁次郎
『みづゑ』第八十九
明治45年7月3日

  今年は十年目で出品數は澤山である。そして之ぞと云ふ程のものがない、兎に角自己に正直な歩みを以つて一天張りに進むところには例へ古るくとも固定的でも、平板でも其處には其人丈けに何かしら物に成つたものが胚胎するものと見ゆる。此會中隨分根のいゝ態度を連續さるゝのに感心させらるゝ向もあるが、さりとて只一本の刀をしかと握つて兎に角に自然の一角に向つて居る事には或る可愛さと云ふ心が起らぬわけに行かぬ。決してさう云ふ風にあらねばならぬと云ふ事はあるまいが、之を塵紙の樣に捨つるわけには行かぬ。さうして中村不折氏と大下藤次郎氏の作品を自分は割合に愛敬するものである。大下氏の遺作室に行つて決して自分は惡るい心持はしなかつた。並べられた數十點の作品に不淨な影は見へなかつた。そして平靜な色調の間に或る心地のいゝ感情を誘はれた。いやらしいものゝ多い間に在りてさつばりしたところは冴へて居る。所謂品のいゝと云ふ穩かな色彩の森と山には大抵常に波靜かな水が漾へさせられてある。漾へられた水面と氏の色彩の心持に共間感情の相親があつたらしい。そして多くは靑と綠である。其實景に接しても心持のよさゝうなところ斗りである。氏が斯う云ふ材料を常に撰んだのは必ずしも賣畫なるが故の結呆と斗りは思はれない。其の性癖から行動であつたらしい。隨分人の作品には神經質的に注意を拂ひながら、氣に入らぬものを排斥する事は可なリ頑固であつたらしい。其れを思ふと正直さをも想像されて來る。中村不折氏の作品人物も風景も何だか氣持がよかつた。道學的の固定せる趣味ではあるが、晩春の畫面上半に漾へられた湖水一と刷毛のほとりに、草屋根二三靜かに一種の並びの心地を以つて居るところなどよいゝと思つた。流石に練へられたタツチが着用されて居た。人物に於のて深い生肉の香になくとも道學的觀照のびのびしさは只一概に古るいと斗り云ひ度くない。にきびだらけの畫面よりもどれ丈けいゝか分からない。世の中が悉くゴーホやマチス斗りであるとして其處に一人の不折氏が出現するとしたならばどんなであらうなどゝ想像して或る興味を感じたりなどした。
  全場内五百點からある出品畫にはそれそれ陰れた個性や何かもあつたらう。しかし自分は特に右二氏に興味を以つて見た。外には畫面から來るしんみりさに接する事が出來なかつたのを遺憾とする。(早稻田文學)
 

臺灣洋畫研究會展覽會記念撮影

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