寄書 島より

はくせん
『みづゑ』第八十九
明治45年7月3日

△七月一日 ○赤からん花の白さや蕃椒(晩山) 雨ふりて關へも行かれず、彦は新倉の奧にて棕櫚繩をなひてあり、お弓けふもかへらず。 ヴールスの峽口を描く。左側の山色おもしろくゆかず、化物の如き繪出來て心地よからず。 黄金菊剪りて柱掛に挿す、柱掛外出の折には水胴となりて時には飲用せらるゝ事もあり、昔はウイスキ入りてありし瓶なりそれを綱袋に入れて吊るしたる柱掛なり。 執拗くも降る雨かな、一分の小止みなく夕暮に及ぶ、沖のや梅吉死す、悔みにゆく、 □葉がくれの南瓜の花と垣に咲くひさごの花に夕雨ぞふる。 みづゑ來る、栢亭氏のローマの少年、輕快なるスケツチなり。
△二日 雨にふらざれど滿天黑く曇りて海波あり、風強からざれば彦に關行の仕度をさす。 東風ゆるく吹きて大座山の頂きに雲多し、久し振りに理髪す、鏡のよき店を選びて入る。 日光くもの奧より時々海を映つし、弱き追風あり。 熱竈谷を長き橫繪にして寫す、色はやゝ洋畫めけど圖取全く日本式なり。 ○晝見れば首筋赤き螢かな(芭蕉)
△三日 ふりみふらずみ、今日も定らざるさみだれの氣なり。なびゆる心を抑へ抑えブーンヤドワール村の一葉を畫く、堅高き圖柄色も面白く出來て心うれし。 ミノルヵ病ますます重し、何病にや判らざれば藥もわからず死に赴くを日々見る哀れなり。 □病ひてミノルカ伏せる軒下の烏屋すれすれにさみだれぞふ る。 夕ぐれに障子ひらきて日本紙に粗畫で佛國風景二葉寫す、別趣の繪出來たり。 ○うつむきし百合に雨ふる垣根かな(閾更)
△四日 空に曇れどもやがては晴るゝ雲の色合ひなり、久五氏の便船あるを幸母上に美喜子を連れて田布施へゆかる、朝夕一擧一動を睨まるゝも見衆に出行かれし安堵の思ひあり、さもしき哉この狹き心。 ○大津繪に丹の過ぎたる暑さ哉(蓼太) ゲーリー湖を十六切に寫す、薄く幻の如き繪にて普通人には奇麗にてよろこばるゝならん、水も山も平遠、淡としてひくき島を見る、翌日弟に見せると、これは夢の繪なりといふ、さなりさなり。 夜、月雲間より出つ入りつ了、妻と東都に遊びしが夢なりしは一日の曉なりし、肺を病みて咯血せし夢を見しは其の次の夜なりし。 □しまぼしは笠などさしておはすれば病ふ鳥の死ぬ夜ならん か。
△五日 桐の枝を打下ろす、離れの縁より仰ぐ東の空はれやかに打展けたり、あまり嚴に過ぎはせざりしやと思はるゝ程バラに鋏を入る。 ○山開き十三州の日和かな(碧梧桐) エスパンゴー湖の夕陽を描く、鵺的なり。 眞弟と數分間歡語す、春の朝うすらひ解くるよき心持となる、とし子獨りにてよく遊ぶ、優しき娘なり。 □雨の日は蚊など舞出で軒下の小暗き鳥屋に死せるミノル カ。 途に死す、裏の橙の下へ埋めさす。 月佳き宵なり、南の濵に散歩して東山君の許により長談議す。
△六日永祿二年狩野元信卒すとあり。 二番を焚き、袋洗ひ、樽詰めなど藏はかなり忙し、彦の手傳些少なりともせんと思ひ思ひ一日もいつしか暮れたり、仕事の仕度くなきと腹の底の心地惡しきとにて書齋に籠れり、ハガキ形の水彩六七枚かく。 H君來る、暮方の縁に腰掛けて雜談す。彦、佐賀へ是非行くとて忙しければ碌々談もえせず、庭の隅々はいつしか暗くなりて南より北に走る雲の脚早し、 ○夏の月御油より出でゝ赤坂や(芭蕉)
△七日 明方少し雨ありしが、雨垂れの砂ぬれてあり、柘榴の花あまた池に落つ、曇天。 寺の隱居、病鶏には六神丸がよく効くと敎へに來て下さる。後の祭りなり。 五人集をよむ、寒い影はよわよわしき氣嬉しく、而して゜悲しかりき。長兄は心安く心良くよむ。狐火は半ば刺撃され、半ば不得要領にて。女には引きつけられ、追ひまはされ、興味深く。御殿女中は何の苦もなく。皆とりどりの趣あり。頭痛全く快からず、終日、如何にして余は食事を快くせんか、とそれのみ心に願ひつゝ。 ○思ふこと默つて居るか蟇(曲翠) 午後百本あまりの茄子に杖を樹てゝやる、南風の激しく吹く事よ、お雛、人參の種子蒔きに來る。 宵、雲間をもるゝ月涼し、尺八とりいでゝ吹く。
△八日 雨ならんと期待されし天氣、今朝は旭、風の中に輝きて怪しき海の上かな、南風浪を蹴立てゝ空には雲早し、みづゑの原稿かく。 風は南より荒るれど雨とはならず、船頭共白ハエといふは雨多し、一日は吹き一日は和ぎて七日ばかりはつゞき吹くものといふ、雲みな白し。 午後、泉屋の船にて、走り來る波浴びゝ佐賀へ渡る、會議ありてなり、何時も乍らの八百長、はがゆくてたまらざりしが六時頃漸くすむ。風猶荒し、前よりは波も大きく、船は全く沈みたるごとく汐にしたる、船夫三人に乘合六人、南より迫り來る荒波睨むのみ、歸航出來ず、凪ぎたるを待ちてと八時頃まで海見つめしが遂に和がず。 □あはれかの月こそはわが心なれ黄ろく濁りまろく沈める。 一人、水場へゆき港の人となる。 ○市中は物の匂ひや夏の月(凡兆)
△九日 諏訪子が活けし松といふを二鉢見る、枝をあまり折らず曲らさず、野趣多きが佳し、衞生的なるが我が意を得たり。九時前馬車くる。直ちに柳井に向ふ。 ○暑き日や順禮ねむる榎かけ(闌更) □七八條空をはしれる電線のつばくらにきく日盛りの歌。 □靑空に大きく樹てる栴檀の瑞々しさにおどる我が胸。など駄吟五首ばかりあり、姉の家にいたり久濶の話山山交ふ、風今日も荒し、橋上より吹きまくられて帽子水流に飛ぶ、洗物してありし町痕身輕くとりて呉る、危かりき。嬉しかりき。 F氏と共に和歌講演會へゆく、小學校なり。 五時終會、直ちに又馬車の人となりて夕ぐれの街道を急ぎかへる、ガタ馬車の小さき窓にのこれる夕日かげ哀れに脚の下いつしかうそ寒くなりて、ほの暗き空氣を顫はす馬丁の笛に遠きケルゼンツの森を逃るゝ夜馬車のさまぞおもはる。 佐賀に着くや直ちに便船あり、全く天佑なり、矢張荒風の爲め泊込みのS老人を迎ひに來し船といふ、海上の月いと明らかなり。九時歸宅。
  △十日 朝おそく迄寢る。日影白くけぶりて砂白き前庭に輝く、粗彫なりし昨日の歌を改作す、梅雨晴五首、友二首直ちに手紙と同封して德山なる師の許へ出す。 日毎吹募りし南風やゝ和らぐ。山容落付きたる色に遠く日中の光を浴びて眠る。 稀らしく郵便來る、雜誌多し、藝術には理窟無用ならんも夢路式の女はあまりに非衞生的なり、現代の若き人々はかゝる胸小さきを好めるならんが、かなしくてやがて怖はし。 口たちいでゝ雨はれ渡る海べより仰ぐ皐月のそらの白雲。
△十一日 けふも南風吹きてむし暑し、柿の接木に添木するとて下の菜園にあれぱ税務屬まいりしと人いふいそぎ歸宅。 □月あかし磯馴松の下の砂はらに蟹いでありく瀨戸内の島。 せど庭に白春月光したゝりて、涼しき旅の思出おほく、千里の空に雲絶え、千里の海に舟なし。 良夜の感切に詩心をそゝのかす ○蝸牛角振り分けよ須磨明石(芭蕉)
△十二日 郵便の船にて佐賀へ渡る、○氏へ悔みに行かむとてなり、東風を帆に孕みて快走、直ちに着く。 家は箕山の中腹に在り、登るに汗出づ。 齢九ッ、學校より歸り晝飯了へて近き川邊に水泳に出でゝかへり。また再び行きて溺れ死したるなり。全く親の心の行届かぬ爲めなりし、とて母なる人はいたく悔いてあり。逝げるものは復返らず、哀れに思殘多き事なるべし。馳走になりて直ちに下山、濵にまてる彦と南の風を帆に孕み、危く網代の海に流されんとせしを明神下迄かへる。 方寸久し振りに來る、しかも同じもの二部あり何の故なるや判らず、表紙おもしろし。故靑木氏の畫幅三葉あり、何れもロマンチカルの凄味あるもの、女らの抱けるはいろこの宮の白き珠か、海の幸、實物見たきものなり、同人諸氏の評にこの畫こそ作者一生中の傑作なりと、勇み行く漁夫今少し肥えては不可ぬものにや。石井先生の通信久振にて愉快によみたり、遠き南欧の風よ雨よ、大阪の某國手が調へしといふ藥何時迄も封の儘にてあれかしと祈る。 暮方、水場の十七夜へ美喜子迎へかたがた行かむとせしが獨りにてはつらく、ギダミ釣りに行きし彦を待つうちに時經ちて止む。 萬朝報に華山氏の女子貞操論をよむ、同感なり。 月明し、納涼すとて豐彦ら笛持出で女ども乘せて近海に漂べるが手にとるやうにきこゆ、騒ぎ興じたる揚句彦誤まつて海ヘドンブリ、笑聲高し。
△十三日 爲永春水死せる日なり(弘化二年) 今日は虫送り祭とて鎭守樣には朝より太鼓の音晴やかなり。 日中の庭に椅子持出でてカンナを寫生す、日光頭上に照付けて肌襦袢汗ビツショリ、黄色の花大なるは描寫六ケ敷かりしが緋色の小さきは色もかなりに出でたり、日本畫式にてバツク全く無き繪也。 ○宵闇や扇ひらめく螢狩(如酒)
△十四日 日影麗かなり、波の上に躍る旭子、長き廊下の壁に反映す、凉しげなり。 二三日來待ちし美喜子、夕暮近くなりて漸く眞弟とかへる。 光子浴衣一枚にてよく歩行く、まととに輕げなり。 ○涼しさよ牛の尾をふる河の中(萬乎)
  △十五日 近所の神さん連三人に安公がおふくろに御飯焚たのみて井凌へす、エツシ、エツシ面白半分に騒ぎ興じて午前九時半といふに濟む。 ○涼しさや浮洲の上の雜魚くらべ(去來) この日駄吟十首あまり、中に □美しき床屋の店の姿見に映りて掠し朝がほの花。
△十六日 モウロシの海岸へ大束積みにゆく、遠山仄かにかすみ朝の空氣やゝ濕りてゆるく動き、島影海に落ちて、我がゆく船の下潮清く、海の底あらはに澄みて、貝の殻、藻の色など美しう彦が漕ぐ櫓拍子も輕く、清涼まことに掬ふべし。 ○夏の雲みな白鷺となりにけり(鳥頂)。
△十七日 家内の乳の腫物ますます重る、幼子を宅に置かれても困るゆへ連れさして佐賀へやる、朝より日光強くあつき日なり。 彦と大束積みにゆく、今日は眞君宅の不在番たり、朝來客ありて出る時遲かりし爲め仕事はかばかしからず、砂小さ春草いきれする南の濵に螢々と働く、(草むらに一點ともる野百合かな)。桔梗一本野百合二本折りて正午過ぎかへる、洋畫材料、春泥集くる、心の底にむつかゆき塊の轉がりて捕へがたきものあり。名状すべからず。 國手はウンダラキッテヤルといふと家内は眉をひそめていふ、傷を付けず散らしたき處存なり。 ○赫夜姫紙魚の行方を覺束る(乙二) 額椽疵無ければ好いがと氣遣ひ遣ひ開き見る。四分一、一本離れてあり、マットも序でに取寄せればよかつたにと殘念なり。 明日大掃除すべければ宵より寢る。
△十八日 三時眼覺む、家内と起きて小さき家具など前庭に運び出す、近所の神さん連に手傳たのむ、日光昨日に似ず激しからず。「因果な事じや」とみな口々にいふ、生憎の意なり。 ○蟲干や幕をふるへばさくら花(北枝) 彦夏祭りの日ヒコタン五六尾にチヌ、ギダミなど釣りてより大に釣に趣味を感じ、今宵もチヌ釣りなり。鰯網初網大漁なり、タベの濵大に賑ふ。 □魚つりてかへれば門の夕闇の梧桐の下になく蛙かな。
△十九日 □花白き爽竹挑を吹いてゆく曉の風水とおもひし。 日影強し、昨日の比に非ず。まことに生憎の日なりしなり。 前日の勞れにて終日眠し、郵便一通も參らず。 ○合勸咲くや世に飽れたる豆腐茶屋(道彦)
△ニ十日 お弓機織蟲をつかまへ光子にやるといひて持ちまゐる、寫生して放逐す。 前夕寫生せし幼子に着色す、現物に似するといふことは物質を現はすより六ケし、但し人物に於てのみならん。 土用近き日のあつさ、せどの婆さん心太賣りに來る。とし子氣味惡き顏して箸を措く。 今日、平生便船無かりし由、正午過ぎて知る、家内眉をひそめ乳を抱いて思煩ふ、蒸し腫れを吸はする蛭が來ぬ爲めなり。お八ツすまして彦を佐賀へ遣る、鯉と蛭とを捕りになり。 ○犬蓼や汗馬を洗ふ脊戸の雨 夜春泥集を讀みながら遲き彦を待つ、家内は?の裡にやすらヘリ。 □煤けたる?にとまりて淋しくも啼く音たてざる靑き機織 蟲。
  △廿一日 □乳無くて子は泣きなげく彼の母もおもひわづらふ?のうち かな。 今日は土用の入りなりといふ、中々に暑し。 水繪かへる、やゝ好評なり、新らしき試みの事とて我が心躍ること甚し。 ○からかさに餘りて見ゆう夏の山(成美)
  △廿二日 日かげ強く又弱し、雲多き日なり。 靜かなる朝の室にさびしき時計の音をきく。妻は乳ますますいたむといひて終目臥戸に籠る。 ○澤潟の太りすぎたる暑さかな(嵐雪) 夜、舟に乘りて涼む、舷近く魚飛び刎ねて、星水に落ち清涼いはん方なし、灯せば魚あつまる。皆サヨリなり、彦と手をさし伸べて十尾ばかり採る。
△廿三日 きのふ終日待ちし夕立。夜に入りて多少ありしが、脊戸庭の凹みに水溜りて大地も濕れり。 別府の彦さん稀らしく來る、一年振りなり、香簡、巻煙草入、茶合など彫物見せながら三時間許り話暮らす、君またの名、文泉子、狂才に富む、繪をかいて呉れといひてかへる。 ○鴛鴦のよごれて見ゆる土用かな(旦々)
△廿四日 カンナのバツクを塗る、コバルト、ライトレツド、グリーンなど頓と引立たず、却つて元の白紙の方佳かりしに今更に惜しく、何故今一度カンナの園に入りそのバツクを參考とせざりしやを獨り嘆く、美しきカンナ、見事に咲けるカンナの二株はつまらぬ小主歡の爲めに臺無しにせられたり。骨を惜しむより更に下ってなまけるとつまらぬ結果を來す原因なり。 眞弟かへる、景氣佳し。暮方H君來る、病寢録今少し貸し玉へといふ。 ○傾城の夏書優しやかりの宿(其角) 庭のま中に置座を出す、清風なり。
△廿五日 曉、牛を海に入れて洗ふの日なり、子供ら起こして見さす。 ダリヤを寫生す。 □風涼し淺き水際に舟造るたくみの群の白き襦袢に。 要用ありて南の濵にゆき、途上H君の宅による。朝寢坊の君飛び起きて迎ふ。病寢録中の一節一節につき質問す。未だ戀の輕驗なき君に詩人の戀愛觀は難解なるべし。君も亦種痘をせざる一人なり、危險なり。 ○書寢さめて松風に胸のすきしかな(保吉) Y君來訪、遠き街よりこの島に來りし海水浴客にては君を以て嚆矢とす、古畫の話多し。
△廿六日 友蓬月の死したる日なり(四十二年) □夏も早蓮咲く頃となりにしが思出うすきことの悲しさ。 朝露の干ぬ間に蒜を掘る。 午前彦と樽振り、日雲を出でつかくれつ、日光強くなるに連れて海風起り、餘り苦しからず、烏賊の子一尾一寸許のなるが脚近く泳き上りて游ぶ、透明なる水の底に靑ガラスの落ちたる美しきものなり。南風ゆるく吹いて高苫ふきたる舟輕う泛ぶ。 午後あまり暑ければ樽を振らず、彦には栓などけづらし、自分はダリヤと孔雀艸に着色す、舟小屋の裏午後なれば明る過ぎし程あかるき繪なり。 ○夏痩や今朝咲きそめし白木樺(杉隣)
△廿七日 曇天、となりの寺には供養あり。 ○書寢して手のうごきやむ團扇哉(杉風) 住田屋の船頭「もう夕飯は濟みましたか」と問ふ、濟みしといへば、「小鯛あり、茶潰にさせようと思ひしに惜しき事なりし、今からつくつて食つては?」と紅鱗美しき鮮鯛の發刺たるを舟より濱邊へ投げ呉る、早速自分料理、縁先きに小酌す。
△廿八日 寫眞賣、目藥賣等來る、日光鮮かならねど雨はふらず。 ○あはれとも知らで蟲賣る男かな(梅人)
△廿九日 Y君が置いて行きし白扇に筆とる。龍宮の岬より見たる大座山の靄なり、圖右に片寄りて見苦るし、俳句なりとも書付けんものと考ふるに想成らず、舊作六月やにお茶を濁す。 ○抓むとき螢に餘る力かな(靑峨) 夕ぐれ南の濱にてY君に遇ふ、數刻談笑す、謠曲や古書畫に慰めらるゝ君は幸福人の一人ならんか、暗き夜なり。
△三十日 ダリヤと孔雀草のバヅク如何せんものか、と思案の末、古壁にす、大河の如き裂目面白からず。餘り明に過ぎたりと思へど、この上色どりして汚しなば之心怯ぢて筆下す能はず、蜻蛉一尾添出せしがこれも面白からず、バックには何時も乍ら閉口なり、雨時々いたる。 ○白雨や家を回りて家鴨なく(其角) 松の立木一本賣る、暮方其の爲め脊戸山を越す、靑草の靑きが中の灯せし如き野百合に夕日あかあかと照りて、雨後の雫燦として散り且つ舞ふ。 水澄みて栗色の藻の底淺み山の小沼に河骨の咲く。
△卅一日 早く起きたりと思ひしに時は早五時なり、雲暗く蚊多し、昨日までは乳の爲めに終日臥床せし妻けふは氣分も佳しとて朝餉心地よげにまゐる。 お雛來る、芋の草採なり。 雨折々降り出でゝからだの惰るき事限りなし。 ○秋待たせ給ふか宇治の大納言(呂風)夕飼の半ば、五島のとめちやん死んだそうなと外に遊びてありし美喜子言ひて歸る、不取敢家内ゆく、風邪熱に心臟麻痺なりし由、自分も浴衣のまゝ直ちにゆく、幼きものは清き哉。ありし日の面影其の儘、顏美しきが眠れる態に母なる人の膝の上にあり、沈める心状に似たり。

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