寄書 おもひで
小島虎太郎
『みづゑ』第八十九
明治45年7月3日
僕が水彩畫を學んで今年で丁度十年、一昔になる、僕は小學時代よリイヤ生れ付繪に大好きであつた、十年以前までは毛筆や鉛筆などで洋畫紙や何かへ書いた物だ。其の當時よく山の手の英人屋敷へ出入した。主人公はラセルと云ふ英國人で盛んに書いて居つた。尤も水彩畫と云ふ物か何か知らなかつたが唯わけもなく面白いから毎日遊びに出かけ三十錢かのブリキ函の繪具を買ひ、一生懸命習つた、ラセルさんは實に僕の水彩畫の恩人であつたが、都合上三十七年頃歸國された。其の後「月刊スケッチ」を愛讀した。「みづゑ」を手に入れたのは三十八年の夏て、當地の一二堂と云ふ本屋で初めて御目にかゝつた。それは「みづゑ」の第一號で數百の味方を得た樣で實に楡快であつた、それから愛讃者となつて今年で丁度足掛八年古い古い御なじみだ。
「月刊スケッチ」や白馬會の「光風」又「方寸」などは再び御目にかゝる事が出來ないのに、大黑柱を失つた「みづゑ」が一人尚續刊して居るのは實に喜ばしい次第だ。八年間みづゑ初號より受けたる敎へは又甚大な物だ、僕も畫家で立たうとして白馬會でデツサンも少しは學んだ、尚進んで水彩畫研究所へ入りたかつたが、家事上の都合で歸國した實に殘念であつた、此の頃の「みづゑ」は口繪が石版刷で一二枚より付いてなかつた、又繪ハガキ競技會などあつて、毎號出品數約貮百枚、出品者五十名位、殘念ながら僕は五等か八等より上れなかつた、其の時僕等と共に出品した赤城君や相田君等は專門家になられたが僕は今街みづゑの愛讀者として、又アマチユアとして勉強して居るにすぎない、が繪を書く御蔭で物を見ても他人より面白く、旅行などしてスケツチして來た畫を見ると、其時の有樣を思ひ出し實に愉快なものだ。