寄書 天才畫塾寫生紀行

T生
『みづゑ』第八十九
明治45年7月3日

 もう五分も後れやうものなら取殘されやうと云ふきわどい所へやっと駈けつけると、續いて先生が來られる。おめずらしい、今日は洋服に鳥打帽、油のスケッチ箱、片手に三脚と傘御持參で靜かにあらはれる。皆脱帽、一寸頭の競技會、別にふるつた頭もなかつたが、H君のおしやか樣、M君の六甲山、やゝ異彩をはなつ、丁君のライオン逸して影なき事久し。
 豫定に遲るゝ何分か、ボーと電車は北に向つて走る、途中先生が居られるので皆々猫をかぶつておとなしい、やがて箕面につく。ぞろぞろと出た一行、探檢家然たる先生を先きに瀧路にそうて上る、瀧前で休んで更に上る事數町、瀧壷にそゝぐ流れで寫生ときまる。まつさきに先生が初められる、其附近の少さい場處をこゝかしこと、岩の上を飛んだり越したり一としきり騒ぎが有つて、皆それそれ落ついて靜まりかへる。特別念入りでひまのかゝる事甚だしい。そうと皆の樣子をのぞいて見ると、皆々熱心に所謂無我の境、中でも勉強家のE君や、君Hの筆は盛んに走る、殊にE君の岩や流れはお手のもの、お作も見事なのだ、反對のヅボラ組では釣好きのA君、手早く一枚片づけると、わざと殘した辨當の殘りをゑさに、ガーゼの絲で野生の竹を竿に岩陰にかくれて大公望をきめこむ。色の白いT君、人の繪ばかり見てはこんな所は柄にないと一枚も筆をつけず、無邪氣に岩の上を飛びまわる、後で聞いたら下駄が無慘だつたとは見かけによらぬ呑氣なお方也。こんな間に先生は傑作二枚を得られる、さすがはと目鏡越しに光る圓熟したお顏を拜して一寸恐縮。
 暫時休んで後、一里餘の山路を勝尾寺迄參る。茶店で藥屋になりすまして、お茶やサイダーの一杯氣嫌で元氣よく元來た道を歸る。とかくA君が後れ勝ち也。コンパスが短かいからだとは誰やらの蔭口ばかしでもない樣子、都育ちのなれぬ山路には一寸御難澁とお見うけ申した。
 歸りの電車は何時だつたか、元より時計なしでたしかならず、だが何でもH君が六時前とか云ふたのをチラリと聞いた。
 淡い灰色に暮れてゆく夕やみにキラキラと光る星のやうな電燈にそふて、車は南に流るゝやう梅田へ着いたのは何時だつたか

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