煩悶に四五年を

靜遠
『みづゑ』第十一 P.4
明治39年4月18日

 私は幼少より畫が大好であつたが、天性無器用で、父や叔父の樣に書けぬけれど、職業の餘暇には文人畫と漢詩とを無二の友とした。其頃つくづく考へた「小學校教科書は小學教員の手で作たのが最適當である」と又掛圖も教員自身で描くが宜い、縱令畫は拙くも教育的に出來て居れは足ると。
 教科書に就ては法令の束縛があつて自由ならねど、掛圖はぜひ教育的の物にしたいと思ひ思つて、遂に大膽にも無謀にも之れに着手した、幾多の苦辛は見事に失敗に歸した。
 そこで參考の爲に西洋の掛圖を取寄せて見たに、云ふに云はれぬ妙味と價値とがあるので、彌々改宗に决心して、十餘年蒐集した漢畫の法帖扮本書器一切を賣つて掛圖と畫具に換へたが、餓鬼に鐵棒チツトモ手が動かぬ、勿論其筈で、毫も洋畫の智識の無い上に漢畫の粗放な氣習が遺つて害を爲すから。
 大に困つて、東洋畫と西洋畫とは調和が出來るや否、換言すれげ兩畫を折衷して(卑怯乍ら)吾が目下に横れる過渡の困難を減し得るや否を諸家に質したが結局不可能!
 殘念乍ら十五六年前の師範學校時代に立戻つて、米國版畫學書で鉛筆畫を習ひ復したが、性來の無器用で人一倍の練習を要すから、終に紙筆に窮して黒板白堊を用ゐるの止むなきに陷つた、是れが我が爲に新生面を開く基となつた。
 ナゼならば、兒童に示す圖畫は大人に示す夫れよりも尚一層善く描かねばならぬ筈であるに、此頃の黒板畫は酷ひ者であつた、中學大學亦然りで、教授用黒板畫の研究は最大急務であると信して、一身を之に投じた。
 けれども黒板畫と云ふ一科が成立つては居らぬ、ツマリ圖畫の應用であると云ふ當時の状態黒板畫を研究するには之に先だつて圖畫研究の要がある。色チョークを用ふるに及んで色彩の研究は焦眉に迫つたが、當時は和製の彩畫帖は無い、我地方で洋畫をやる人は皆無だ、外國製の手本は高價で年に一册より外は買ふ力がない。
 失望落膽、煩悶に四五年を經過した、此地獄の底て遙に一道の光明を認めた、夫れは大下先生の水彩畫の栞の出版で、年月は忘れもせぬ明治三十四年六月。
 其後は行住坐臥此書を携へぬ事はない、初版五版二册は過度の使用に破れて、今は水彩畫階梯が代つて指導の任に當つて居る。
 私が彩畫に志した動機(寧ろ經過力)はコンナに幾變轉を經たものであつた。

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