弟より自筆の繪葉書

幽溪生
『みづゑ』第十一 P.6
明治39年4月18日

 僕は先天的惡筆で、學生時代には脅字も圖畫も劣點あつた、然も性來繪畫、就中洋畫は好きであつたが、美術學校に其教を受くるに非ざれば到底不可能事として、唯人の畫を見て樂で居た。偶郷里中學に在る舍弟より、自筆の繪葉書を呉れたのが僕の水繪に志せし動機と云へば云ふので、僕今は土木工學を卒へて職を奉ずる男で、同じ繪具同じ彩筆を以て製圖するのであるから、少しく其素養を得たならば繪葉書位何かあらんと思立たのである。恰も其當時に『みづゑ』が生れた故直に購讀者の一人に加はり、參考書畫も數册求めた中でも『水彩畫階梯』は唯一の教師と頼み爾來之れが研究に勵みつゝあるが、僻地の悲さには大家の肉筆を見る事叶はず、又た己を得ず印刷物に由て其調子を知る位で、最初は製圖彩色法が先入主となり、兎角單彩法に陷り、到底僕は筆の人に非ずと嘆じ、既に全く之を廢さんとせし時に、知人が露國の有名なる畫家の手に成た風景畫二葉を得て、之を貸與して呉れたので始めて、肉筆に接する事が出來彩法に就て大に得る所あり、乃ち腐心を飜し更に彩畫に熱中する樣に爲つた。
 水彩畫を學びし結果は、工業の製圖に彩色する簡便法を悟り、繪具を節約するを得て、從來無駄に溶て使用の量より捨てる量多し等の風習は自然と失せて、彩色に當て臆す事なく落付て如何に廣き面積も鮮かに彩色する事容易となり、規定になき色素も咄嵯に調合し得る利益を得た。又た再三有べからざる事なれども、失策の部分を能く修正する法も覺えた。之等は得たる利益の顯著なる者である。

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