最高のテースト

桃江
『みづゑ』第十一
明治39年4月18日

 僕は生れつき繪が大好きであつたが、描く事は至つて拙で友に描いて貰ひ喜んで居た。中學に入つても矢張り下手で又描いて見る氣も無かつたが、二年級の時寄宿舍について、或時一枚の水彩畫を貰つて來て室へ懸けて置いた。其頃毎月一回競走だとかテニスだとかの競技會があつたので、丁度其時は繪と字との競抜會で、組長が出品を集めて居た、僕の室に來て留守の間によい繪があるとて持つて行つてしまつた、僕は知らずに歸つて見ると早や審査濟でしかも第二等の札が付いて居たので驚いたが、今更撤回も出來ずそのまゝにして置た夜になつて批評があり、誰れの繪かと問はれたので、まさか黙つて居るわけにも行かず仕方が無いから自分のである旨を告げて漸く無事に終つた。考へて見ると今迄至つて下手なものが二等などになつたので、人に問はれるのが何だか變になり、偽をついた樣になつた。がかうなると繪と云ふものが面白くなりまた少しでも上手にならぬとすまぬと思つて早速描く氣になつた。今迄寫生などした事がない初めにて二階から鳥羽の野を描いたが、勿論うまく行かぬ、ふと水彩畫の栞があるのを思ひ出し圖書室から出して讀んだ。それからは段々面白くなり少しても隙があると稽古して二學期から鉛筆畫を教はつて、大層都合がよかつた。學校の成績は可なり行けるが、獨り野外寫生となると少しも描けず、今に至る迄煩悶して人に見せる樣な繪が出來ぬ。然し自分は决して繪筆は放さぬつもりで僕の傍業として趣味を持つは、たゞ水彩畫あるのみと信ずる。先づこんな事で僕が繪を初めたのであるが、最初はつまり一の名春譽心に過き無かつたが今では最高のテーストと思つて居る。
 

冬枯柴崎

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