日曜には畫嚢と辨當

平澤輝吉
『みづゑ』第十一
明治39年4月18日

 至て僕は畫が好で、幼少の時から紙さへあれば畫く事を樂みにしていました。今でも時々母親が、御前の幼なかつた時分には、畫の手本を書いてくれ書いてくれと云ふて實に弱つたよと云はれて居ります。小學時代はいつしか過ぎ、中學へ入學してからは水彩に熱心になり、其中にも風景畫を好み、始終畫いて居りましたが、小學時代の日本繪的筆跡が抜けず、洋畫とも日本畫ともつかぬ至極曖昧な者を書いて滿足していました。而し三十六年の頃であつたか、洋畫會で水繪を見た、御恥しいが僕が肉筆の水彩を見たのは是れが初めてゞ、此時自分の心は異樣な感に打たれ、今迄畫き來つた所を思へば、吾れ乍ら可笑しく又呆れるの外はなかつたのです。僕は是れに因て少なかず感動し、水繪と云ふことは益々自分の頭に印象せられたので、以後臨本に因て一心に練習しましたが、思ふ萬分一も捗取らず、悔しさの餘りいつそ水繪といふことを斷念しよをと迄、思ひましたが、或日朋友と遠足の歸路、飛鳥山で三脚を腰にせる人を見うけ、此處に初めて戸外寫生の徳を知り、再び心を飜ひし、以來日曜には必ず辨當と畫嚢を背員つて家を飛出しますが、眼前が總て實物なるだけに興味が多く、又意外の成功がございます。

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