あゝ愛する『みづゑ』!!!

畫狂生
『みづゑ』第十一 P.10
明治39年4月18日

 僕は天性畫は至て下手で小學時代なぞ圖畫と來たら丸で無茶だつた、何時も何時も圖畫で滿足な點を得た事は殆んど皆無で亦勉めて描ふともしなかつて、處が近年西に東に旅行し、新らしき風景に接する毎に、アー僕も畫が出來たら端書にでも一寸スケッチして郷里の田舍漢を驚ろかしてやったらと思つて、今更のやうに殘念で殘念で堪まらず、亦斯の道の心得あらば、如何に樂しく如何に趣味あらんと思ひ、せめて少しなりと學びたひと思つたが、八十の手習とても駄目だと斷念した、
 所が僕の友人に非常に畫の好きな者があつて畫さへかいて居れば飯は三日位抜きにしても一向差支へないと云ふ勢で、實際飯も食はず行るので、時々醫者から忠告せられ、心ならずも筆を擱くと云ふ程の大好きて、誰の畫風誰の筆法を習ふと云ふでなく、所謂自己流で行つて居るが、持つて生れた天性か中々甘い、殊に人物は其得意とする處で、水彩畫よりも寧ろ油畫の方が近ひ樣な筆法であるが、僕も朝な夕な見る毎にそろそろ浦山しからざるを得ないと云ふ譯で、亦々野心勃々どうしても一つ眞似事位出來さうな者と思つて居た、其は丁度去年の春で、世の中は繪葉書の大流行で僕の友人等から所謂御手製のヤツがやつて來る、夫れを見る毎に、どーかして僕も一つと思ひ益々、僕の燃ゆる野心へ油を注いだと云ふ次第、此の流行の要求に連れ、彼の讀賣新聞には毎日繪葉書の圖案を掲載して、夫れに心切な彩色法まで出し掛けたので、僕も或る日徒ら半分にやつて見たが一寸見える迄に出來た(但自身の眼から見て)、夫れから段々趣味が出て來て、簡より繁に進み其中には畫らしい者も出來、友人を驚ろかしたことも少なくない。
 其後は繪葉書位では物たらなくなつて、少々大きな物を書いて見たく思つた。而し僕はドーしても彼の日本畫の不自然な山水や、枝の無理に曲つた松の木や、鼻より口の小さい的美人を畫きたくない。
 ドーかして自然其の儘を美的に寫す事が學びたいと思つた、夫れには水彩畫に限ると早速書林に走つて畫帖と「水彩畫の栞」を見付け出し、爾來水彩畫の如何なる者なるかを熱心に研究した。其の册子は少さくはあるが親切な者で少なからず僕を裨益した。而し僕の一つ氣に入らぬ事は、頭から寫生寫生と云ふ一事で、或る程度迄は大家の畫帖に依り凡ての調子着色法及物躰の觀察法等はほゞ會得する事が出來る迄に進み初めて自然其れ自身を寫す事の順序ではあるまいかと思ふ、
 僕の友人の内二人は日本畫家で、朝な夕な見聞する事とて僕も何時しか知らず知らず嫌な日本畫に感染しかゝつて和洋何れも就かずな妙な者になつて一時は面白ぐなく筆を捨てやうと思つた、折も折時も時此の道の指導者とも云ふべき愛兒が生れた、誰あろう『みつゑ』と云ふ小册子で僕は彼から得た利益は少なくない、中にも號は記臆せぬが大下先生の赤城の紅葉の石版の出た時は初めて水彩畫の美と云ふ事を悟る事が出來て思はす水彩畫なる哉と絶叫した、爾來引き續き讀むて居るが僕の爲には無二の好侶伴である。
 アー愛する『みつゑ』!汝の責任の重且大なるを白覺し益々斯道の爲め盡碎せよ、余は汝の益々健在ならんを祈る。

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