木の間隠れの水車小屋

K生
『みづゑ』第十一 P.12
明治39年4月18日

 「下手なもの好き」とはよく云つたものだ。近頃他人の畫いた立派な畫を見るにつけどーも堪らない。少し奮發して水彩の道具を買求めた。
 八月三日只獨り裾花上流へと出掛けた。隨分汗も出たが自分にはサ程苦でない。我腦裡には既に樣々な光景が往來してる。足は自ら前へと進む。併し今日に限つてどーも道が遠くなつた樣な氣がする。漸く裾花橋に着いた。是から河に沿ふて溯つたが河風の凉い事。
 舊發電所を右手に折れつ曲りつ行くにつれ山々は迫り、進むに隨ひ益面白い風景が眼に映る。今日ばかり山も河も大分よく見える樣な氣がする。併しスケッチブックを取り出す程でもない。少しは工夫した所も有たが皆駄目。てくてく日蔭の泥濘を飛び越へ板橋を渡りつ。かくて漸く新發電所は見えた。小田切村の農家も見えた。
 只矗々たる崖鬼は巍峨として蒼空を摩し褶皺の奇は集まつて万仭の斷崖となりて裾花河を挾み。近く緑滴らん欝樹の間に山家の點々として實に山河の美は集まつて我眼前にあるのだ。あゝ此雄靈極まる風光。此瞬時我は我を忘れて仕舞つた。吾は此將觀を小さきスケッチプックに入れんとした。大膽にも程よき場所を選び腰を下し、見取枠を取り出してやをら書き初めた。色々工夫を凝らし幾度となく書き直した。が思ふ樣に位置がとれぬ。蒸し暑くなつてくる蝉はジージー。半時間にもなるが輪廓さへも出來ぬ。エーまゝよ蝉迄人を馬鹿にするかとつい筆を投げ出した。あゝ吾は遂に自然の俘虜となつて仕舞つた。殘念至極と垂涎万丈何の得るなく此所を見捨てた。腹癒せに崖を傳つて河原に下り、岩上に憩つて一風入れて晝餉もすました。再び元氣を取直し彼方此方とよい所もがなと見廻した。ふと川上に當つて目についたのは木の間隠れの水車小屋で、其手前には傾き破た釣橋。誠に氣に叶つた。前の雄大崇荘に比べると小規模ながら餘程雅致に富んでゐる。がよい場所を見つけるには隨分困難した。險を冒して岸にすがり淺瀬をベチヤベチヤ漸くとある岩上に辿りついた。が面白くない、向ふの岩がよさそー。併し深さは深し瀬は強し行かれぬ。仕方なく又淺瀬を捗つて岸を攀じ昇つた。所で橋を渡るのだが落ち掛つて處々板が剥てる。思い切つて針金をたよりに渡り初めた。がグラグラオーこはい冷汗が出た。目當の岩へ行つて見るとナール程。やがて輪廓も略とれてイザ着色といふ段になつた。すると忽ち梢を渡る一陣の凉風だ、颯と木の葉を吹きあげたと思ふと見る見る一天かき曇つて空あいがむつかしくなり初めた。又冒險を操り返し坂を昇るとピカと閃一閃ガラガラと云ふ大騒ぎ。屹度何處かに御見舞があつたに相違ない。後で聞くと二三ケ所有つたそーだ。ソレから絶えずゴロゴロで。本道へ出て一丁も歩ゆんだらポツポツと來た。さー駈足だ。其中に盆を覆す樣な夕立雨。急ち全身濡れ鼠同樣。が畫嚢は大切にしてそれで二里近くの道を辿つた。道路崩壤の恐れがあるで霽れるを待つて居られない。
 みすぼらしい風をしてすごすごと歸宅した其醜態。皆は大笑さ。何んだ今日は。吾ながら呆然自失で。遺憾千万といふより他に言葉がない。

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