余の寫生帖

孤崖生
『みづゑ』第十一
明治39年4月18日

 雲往き水流るゝと云ふ樣な神品こそ無いけれども、忠實を主として畫いたる我寫生帖は、まこと我が寳である否、我無二の友として愛藏してるのである、僅か三十五枚の小寫生帖は自分の魂である、或は山水の勝區もあり或は美しき花草、さては平和なる夕や靜かなる朝の面影も存して居るのである、實に此寫生帖は一つの自然である。あゝ我は此寫生帖によつて如何ばかり幸福將た慰藉を得たであろーか?一人淋しき寄宿舍の窓になつかしき故郷の山川に接して笑つたではないか::::其第一枚には何が畫いてあるか?白梅である、自梅の繪があるのである、春未だ寒い頃の日曜日の事であつた、親しき友と郊外散策の折、とある路邊の白梅の、いと趣味あるが捨て難いまゝに拙なき筆を運ばせたはこれである點景人物の子守。心地よいコバルト色の天空、自分ながらよく出來たものと思つて居る。
 次は何であらう?云ふまい、言はぬが花があるものを、かくして我の寫生帖は日に日に畫が多くなつて行くのである、彼の大畫家コロナは寫生帖をはなした事は無いと云ふ事であるが私も實に其通りである愛弟愛妹を連れて行かない處へも我寫生帖は連れて行く、彼は束の間も我瀞デーをはなれた事はない、彼は何時も我ボッケットの中に在つて我のお供をして居るのである。
 春も最早や中頃とはなつた今井ケ迫の桃花も昨今滿開です、我は日朗らに天うらゝかなる日を撰んで春の永日を樂しき寫生に指を染めん事を期して居るのである。

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