水繪に志しし最初の動機
美登里生
『みづゑ』第十一
明治39年4月18日
私は、小學校時代から大の繪好でしたが、中學に入ると間もなく、今の福岡大學、未だ其頃は縣立であつた福岡病院で一年半程病氣療養しました。御承知の幽境、袖の浦の朝の色、名島の濱の夕景色、多々羅に網引く蜑の樣、さては箱崎八幡の嚴めしき社殿、其他附近の景色が、何れも活ける畫でせう。此四圍の風景は非常に私の頭を變化させました。當時友人に、大變文學趣味を有して居るのが有ました。私も好める道とて常に文筆を弄して唯一の娯樂として居ましたが、神秘の妙は、歌や詩では充分でない、是非共畫の力に倚つて自然の美を捉へねばならんと考へました。で、小學校で習つた鉛筆畫で、おぼつかなくも畫いては失敗し、失敗しては畫きして見ました。其後全快して東京で或る中學四年級に入つた時、乍不完全水彩畫を習いました。其頃大下先生の、水彩畫の栞を買つて大悦び、マア免に角一通り畫いて見て、同好の友人二三人と安繪具を持つて、王子や行徳までも出掛けて見事失敗!、併し、其趣味ある事は大なるもので、ナカナカ思切れない。都合に依つて歸郷した後も、水彩畫階梯や、其外二三の手引を師としてやつて居ます。今でも私は、水畫程趣味の高尚なものはない、と信じて居ます。殊に野外寫生の興味と來ては、亦格別なものです。