美術家は無用の長物にあらず
AT生
『みづゑ』第十一
明治39年4月18日
不思議と言はゞ凡そ人の一生程不思議なるは有まじ、即ち無意識たる出生に初まりて此の繁雜極まる一生を送らざるべからず、世の事皆然り。余が繪畫に志ざせしも又然るなり。我郷は全國にて景色の變化に冨むと謂はるゝ、九州の其の最なる肥前島原なり。一自然兒として生れし余は敢て繪畫に渇せざりしも、四年の昔郷を辭して紅塵万丈の間に呼吸し夏季休暇に歸省す。
時將に日西山に傾かんとす、ステーシヨンより四里の道を腕車にて行く。村はずれにかゝる右には轟々たる千々石灘、寄せ來る波の石に荒まじき音、前には暗黒の中に屹立せる眞黒の温泉岳、沖には數千の漁火點々としてあたかも空の群星と戯るゝ樣、蟲はあたりの森陰になきすだきて又一層の美を添ふ。あゝ我に詩を綴るの筆ありせば我に一莖の繪筆取るの才ありせば、無量八百哩を隔てゝ友と共に樂しみ得べかりしものをと。余は此處に靈火に接しぬ。繙然として悟りぬ。實に眞の畫家眞の文學者、はた音樂家は無用の長物に非ざりしなり。此處に我は繪筆取る趣味を解せしなりき。是此道に志しし初なり。