寄書 スケツチを精神の修養に

荒井清文
『みづゑ』第十八
明治39年11月3日

○僕のスケツチは大に下手であるが、よし下手にもせよ人の作の眞似をせず下手腕を揮つて自ら自然の美を觀察するのかと思ふと、何となく男らしき品性を養ひつゝあるやうで愉快に堪えぬのである、又僕の地方は甚だ平凡だが此平凡の地を何度も何度も探して可なりの場所を見出すのは中々進取の氣象を養ふので其の度毎に敢てせずんば得る所なしと私語するのである。
○寫生が初まると我々は御同樣夢中になるが其の間は浮世の名利などは洗ひし如くに去つて自然の偉大なる教化に浴し其の美に親しむ事が出來る、殊に曉天を仰ぎて靈光に觸れ夕雲を望みて壯嚴を感ずる時は胸廣がり心清うなりて自然と我との間に隔ての無くなる事は諸君も度々經驗せられたであらう。
○要するに寫生が高潔なる品性の修養に適してる事は爭はれぬ事實である。
○寫生をノンキなりとは誤りである、
 ほのぼのと白む黎明の天に低く懸れる紫黑色
○雲が何とも云へぬ程面白きに筆を下せば見る見る天は薄紅を帶び深紅ど變じ雲は焔の如くに燃え龍の如くに去る、若し此の時に於て一個敏活の手腕を欠かば畫は常に失敗に終るので中々以てノンキ所ではない。
○寫生を馬鹿氣てるとは誤りである、
 西山高く霞をついて聳え天空は一面朱を流して片雲一二黄金に染みつ漂ふに筆採れば何時しか朱消失せ黄金沈みて天地は秒一秒暗又黑に包まれ行く、智者ならずして何ぞ此の瞬間の美を捕ふる事が出來やう馬鹿氣てるとは寫生の味を知らぬものゝ言なり。
○寫生をツマラナシとは誤りである、
 一個の★一枚の花只畫かうとしても然うウマクは出來ぬ、いや出來るとした所で碌なものではない若し之を一々實物に就いて其の眞を畫くとすれば一葉の小畫は良く堂々たる宇宙の大眞理を説くツマラヌとは抑も誰がたわごとか。
○要するに寫生が敏活を養ひ觀察力を增進する事は疑を入るゝ餘地がない。
○で僕は女々しく陰氣な小室に臨本を弄する人には勿論、其の他の人々にも機會ある毎に自然の大學校に入つて寫生をやれスケッチをやれと勸めるのである。
○豐富なる知識を有する諸君の前で此んな事を書いて甚だ相すまぬが「おぼしき事言はぬは腹ふくるゝ業なり」ともあるから。

この記事をPDFで見る