美術談叢 専門家と素人

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第五十四 P.4
明治42年9月3日

 此頃は一般に繪畫の趣味が普及發達し來りたる結果。本誌の讀者諸君其他一般素人畫家中に名手が續々現はるゝ景況なるは何より目出度ことなるが。其中には素人では物足らぬから一つ專門家に成つて見ようと云ふ希望を持つ青年諸君も尠なからぬように聞及ぶが。之は私に云はすれば大に考へものである。と云て決して折角の熱心を冷ます譯ではないからお斷りを申して置く。
 畫の研究は一の眞理を極めること故。★に習ふの本當に習ふのと云ふ差別のあるものでない。素入が慰に習ふも眞の畫ならば專門家の研究するのも眞の畫である。其間に秋毫の相違もない。強て相違の點を求むれば。專門家の方は其畫に對して充分の責任があるが。素人の方は假令少位の間違が有つた處で元々商賣ではないから一向平氣で好いと云ふに過ぎぬ。併し素人の中には。ドーセ慰みにやるのだから窮屈な研究を好まぬと云ふ人もあるようだが。之は抑の心得違で。此考にては何年修業するとも上達の見込はない。既に研究する以上には充分眞面目で畫を尊敬して掛るべし。面白半分だと云ふ量見で我からと畫を輕蔑して掛つては深い事の分りようなし。
 素人と專門家とは研究上に差別のないことは右の通り故。自分で專門家だと思つてやるべく。又た專門家たりとも未だ我技術の至らぬを顧みて素人だと思つて研究すると云ふ心掛が大事である。素人黒人を問はずお天狗が大敵なり。素人と黒人の區別を一口に云へば。素人は畫で食はぬ者。黒人は畫で食ふ者とに歸着するが。こゝに到らば諸君に寧ろ畫で食はぬ專門家即ち素人の方を望まれることなるべく私も此方が賛成だ。無論畫で食ふが惡るいには非らず。只だ目下の我邦の現状に於て。畫で食ふと云ふことが誠に職工的にて寧ろ畫を侮辱するが如き仕事の性質なるが故に云ふなり。パンの爲めに汲々として畫をかく所謂專門家よりも。悠々自適して意の向ふがまゝに數寄な研究の出來る所謂素人の方が面白くはないか。
 畫の教師になつて學校へでも奉職すれば呑氣に數寄な畫がかけて之は一番ウマイようだが。之も中々見かけと實際とは違ふもので。生徒に畫を教へると云ふことが非常に面倒な厄介なことで。只だ自分で上手にかけるからとて人に教へられるものにあらず。學者と教育家とは違ふが如く。人に教へるには自分の上手下手は別問題で。教へ方が上手でなければ駄目なり。又た教方が上手になつたからとて我技術が進歩するものではない。談は違ふが。寳生太夫の九郎氏は素人の弟子には一切教授せぬと聞いて居る。なぜならば素人に教へるには初學の者にも能く分かるように節や拍子を加減せねばならず。そうなると我技術に惡るい影響を受けるからとのことで。繪畫の研究に於ても全く此通りである。教師になると云ふことも進んでお勸めは出來にくい。
 併し右申すことは概論に過ぎないので。畫で食ふ者。畫の教師をして居る者は皆そうだと云ふのではない。無論そうで無い人も少くはないが。要するに專門家でも素人でも五十歩百歩であると云ふことを承知して貰いたい。素人は他に夫々業務がある故畫をかく時間が少ないのに。專門家は朝から晩まで畫をかいて居て羨ましいと思はれるかも知れぬが。其專門家が我欲する畫でなく。商賣だから致方なしに畫いて居るのだとなれば羨むべきではなく寧ろ憐むべきことになる。畫の進歩發達は時間の問題でなく其人の決心如何である。尤も金持で且っ用のない身分。丁度酒井抱一の如き境遇ならば畫カキには持つてこいでは有るが。之れは容易には望まれぬことでもあり。又た境遇の安逸が必ずしも技術の進歩に影響するものでないことは。西洋では彼のレンブラントの如き最適例であり。我朝に於ては渡邊華山の如きもある。其他東西古今を問はず。有名なる畫家は金持よりは貧乏暇なしの人に多きこと幾多の實例を見ろ處であり。又た現に私の知る畫家に就て見るも。其人が不遇に甘んじ居たる頃の作品が。名を揚げ地位を得たる後のものに比して遙かに見るべきものあるは衆評の歸する處で。之を思ふと畫カキと云ふものは。猿芝居の猿の如く。常に之を鞭韃せざる可からずとありては誠に因果な商賣と云はざるを得ず。
 畫家としての資格は只其人の技量にあるのみ。素人と黒人とは問ふ處にあらず。後世に遺るも亦其優秀なる作品あるのみなれば。同好諸君は專ら技術の練磨に心がけられ度。腕さへ慥かならば黒人には何時でもなれるなり。

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