日本の隋處隋録[上]
鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ
鵜澤四丁譯
『みづゑ』第五十四 P.11-14
明治42年9月3日
富土山の北方にある湖水へは、外國人には行ッて見れものは少ない。尤も道も困難であるし、宿泊所等もよいのがないからでもあるのである。で健脚の人で、日本食物も食ひ、日本の寝所も關はんとならば、景色が非常によいので、總ての不自由は償ふことが出來るのである。北方の古平原は曾ては駿河灣一帯に見渡す限りの大傾斜であつたらうが、富士山が忽然と出現したので、この景はなくなつた。溶石の流れが溢れて、轉び下つて、古岩石に支へられて止り、川流を堰いたので、こゝに連續した湖水が出來た。これ等の最廣い溶石の流である青木ヶ原を過ぎッた、これは常磐木の續生して居る處で、最小湖のシヨウジ(精進)と最大湖のモトス(本栖)との間にある。樹木の欝蒼とした小徑を辿るので數時間を費して着いたのは夕方遅く、埃多い小徑遙に★たる蒼白い燈の見えるのが、宛として呪咀の光のやうにも見られた。溶石と古岩石との區別線は明に見える。其昔溶石の流れが古岩石に支へられて、固形の波を殘して積上ッた樣が好く分るので。地中の或部分では今猶溶石の動揺があるといふ譯は數年前にこゝの湖水が浮上り初めた。で湖水は平らな高い處にあるので、湖畔に棹さすと、小屋の屋根や稻田の垣が下の方に見える。それで枯松の林が疲せて赤裸で水中に出て居る。わが見た日本の中ではモトスは最古代の地であらう。湖水が浮上ッた時には、住民を多く滅亡せしめたであらう、生殘つたものは僅に炭燒き、樵夫、漁者の如きであッたらうと思はれる。われ等の泊ッた茶屋は木口は立派であるが、今は既に煤け處々破損した處さへあッて、僅に昔の榮華を示し顔、頓て物價の騰貴でもしなければ、回復も出來まじき有樣であッた。この譯は翌朝われ等外國人二人と從僕二人とでの宿泊賃九十錢の書付けを、宿の主人が悲しげに差出したのでも知られる。われ等は湖水を舟で越して、對岸の道のない山の麓へと上陸した。山は丈の高い草があり野生の花の咲いて居る處で、歩行に甚だ困難ではあッたが、この地方に馴れた案内者の事であるから、容易に富士川の方向へと導いてくれた。こゝでわれ等は火山地を全く離れた、山は毛欅其他の樹木が澤山で、或處には歯朶の五六尺の高さなのが、生いて居ッた。この日は立派な天氣で、、日光は眩きばかり、湖水の後には富士が峙立ッて居る。山路は何處も目新しい樹木で、華麗な蝶々が飛んで居る、松並木の突兀たる坂を下ると、鈴川の流域である。シモヤマへと道を急ぐ頃は艶麗な夕陽の頃であッた。湖水に續いて五ッある。モトス、シヨージ、ネンバ、ヵワグチ、小マナカで、西方モトスから東方小マナカへと平に續いて居る。ネンバは森林中の低い處にある、こゝには一部分湖水に没しれ村落が湖畔にあッて、小屋の屋根は奇妙な搆造で、住民は木綿の紺の縞の股引を着けて居る。カワグチは五湖中最美麗な湖水で、浮上ッたのも一二尺許であッたので、水に浸された處も僅少であッた。フナツ、コダチ等は風趣ある古刹や家屋が、盧間に隠見して居るのは、宛らヨナのそれのやうに、この他の湖畔の村落の如く、繁榮して居ろのである。
われにフナツ(船津)から直き近くの吉田に泊ッた。頃は九月の初で、盆祭の最中であッた。これは七日間死靈を祭るのである山側に火が燃えて居る。處々の寺への道にも火が見える。富士の淋しい大傾斜にも休息所や草刈小屋、炭焼小屋に灯が見える。全じ景色を瑞西で見たことがあッた。マーチグニー附近でセント、ジョンの日に祝火を上げて、遠方の隣人に知らするのであッた。この儀式を日本では、ヒマツリといふて居る。この他の儀式は家族の墓地の前へ食物を供える。吉田では墓地は多くは裏庭の隅にあッた。それから屋内には小さな祭壇を造ッて、皿に米、果物、糖果等を供えて念佛を唱えるのであッた。九月の四日に大風雨に逢ふた。此日は實に大風大雨で、雨戸を閉ぢてしまッたので、眞暗であるから、何する事も出來ず、床上に横はッて、戸外の騒動を聞いて居る許り。この大風雨中に俄然單調な唱歌が聞えるので、雨戸を透して見ると、簑笠いでたちの一列が村道をねッて行くのであッた。中に大きな太鼓を棒にて肩にし、手で強く叩いて行く、何といふのであるかわからぬが、一聲に唸ッて行く。これを松葉に尋ねたが、黙して答へなかッたが、遂に白状したには、あれは暴風雨の惡魔を拂ふ爲めだといふのであッた。松葉はいふまでもなくこんな事をいふのを耻ぢて居ッたのだ。しかしかゝる迷信者のあるのは此地方に限るといふ事であッた。兎に角に効能のあッたのか、大風雨は其夜の内に吹止んだ。其後數日多少の雨にあッたが、あの日のやうな暴れはなかッた。天氣が定ッてから、徒歩で甲府へと志した。フナツからカワグチの隅を横斷して、急な山路を通ッた。こゝにも或る祭りがあッて、湖水には舟が澤山に浮んで大鼓を叩き歌を唱ふて居ッた。われ等の取ッた道は、「旅行案内」には人力車が通ずるとしてあッたが、七月の大雨から續いて、此頃の大風雨で道路が大破して、到底俥では通れないのであッた。また一方の道はミサカ峠で、こゝはわれ等が休息して辨當を喫し、富士の景色を稱し、このわたりに澤山にある大きな赤い蘇苔の種を拾ふた處である。それからナカヾワといふ村へと出た。こゝも暴風雨の爲めに大破して、街道や庭は土砂や倒れた樹木で充滿して居り、家の屋根のみが、荒廢した中に見えるのであッた。日本の屋根は材木を好く用ゐてあるので、殊に屋根を厚く葺いてある時は、家の中で一番堅固である。暴風雨や地震では下の方に破れ易いが屋根は破れない。曾て東海道附近で、屋根がそッくり他の所へ風の爲めに持ッて行かれたのを見た事があッた。で、かゝる損害を爲した原因の川を見ると什麼にも少さな罪のない、廣さ一ヤード許の小河であッた。
甲府は大養蠶地の中心で多忙な地である。山側は擧げて桑樹の林で、村落には家毎に黄金色の繭が堆高く、女共は戸口に喋々喃々として絹糸を繰ッて居る。陽氣の好い頃に日本人の家屋を過ぎると、屋内でして居ることは何でも見える。家屋が道路に接近して居るし、雨戸は明放してあるから、裏庭まで見通しである。で氣候が寒かッたり、雨でも降る日は雨戸葎閉ぢてしまうので、憂愁で寂莫な樣に見える。甲府で上等な劇場へ行ッた其後に蝋細工の見世物といふのを見たが、其實は木を彫刻して塗ッたので、伊井掃部頭の殺人事件を愕くべき忠實を以て自然を寫してあッた。掃部頭は東京の町で、冬の日に敵の大名の臣僕の爲に殺されたので、雪の降ッた處が、切られた身體や、寸斷された手等を、好く見せて居る、最後の二ッの人形が、機械仕掛であッた、臣僕が大名の前に跪いて、徐々に血塗れの手拭を開くと、敵の首が目前に現はれる。そこで大名の眉は逆立ち、口の隅が下ッて、驚怖の滑稽的な表情を示して居ッた。
日本の多くの部分よりは、こゝは道が廣い、それで比較的に人力車が少い。旅行には重に馬車でする。馬車といふのもバネなしの少さな車で、がたがたして堪らない。中山道をバネ湖まで馬車を雇ふたが、十四哩の旅で、到着した時は殆ど茄でられたやうであッた。甲府から數哩を來ると、川の橋が押流された處へ着いた。われとわが荷物は川を渡ッたが、馭者は徒渉しやうとすると、水が非常に深い。仕方がないのでわれは、折好くも人夫があッたので、河原を半哩許り荷物を運ばせて、他の馬車を雇ふことゝした。
旅行中初めの中は森の中の永い上り坂で、道側には處々に村落がある許り。ツタキといふ處で馬を換えるので止ッた。こゝでは學校の饗應があッて、式場は提灯や緑葉門や、紙製の花で粧飾して、寺の境内には、小兒等が、飾り物を造ッて居る、其中に實物大の虎を、種々の色の藁で巧に造ッてあッた。この邊の家屋は本製で低くて、檐が廣く、其の屋上には石を積んであッて宛ら瑞西の山荘の思がする。たゞ異る處は、屋根の頂飾が緑で時に一八を載せるが、多くはワシバを附けてあるのである。家毎に南方に竹籔があッて、それが屋根に垂下ッて居る。それからわれ等は峠を越して十二哩餘の埃りまみれになッて、漸くスワの町へと着いた。こゝは湖畔の平地で、小さな流水と溝とで二分されて居る。住民は長い狹い低平舟に乗ッて仕事をして居る。
カミノスワに泊ッた、茶屋は奇麗に磨き上げた木製の家で、布團にカイキといふて、薄い和い絹で被ふてあッたので嬉しかッた。清潔といふ事は日本では甚だ贅澤な事で、家に上る前に足に着けたものは一切脱いでしまふから、疊は汚れない。家材は塗りもせず、汚しもせず、ワニスも塗らない。それで自然の色で、てかてかして居る。天井は薄い板で重ねて張ッてその木目等も丁寧に合せてある。それで塵埃を留める家具を釣ッたり、据えたりしてない、敷物等も上げて振ふ世話もない。で西洋の春掃除のやうなおッくうな事は少しもない。毎朝座敷は箒き出す、天井や壁は塵彿ではたく。であるから甚だ清浄で宛ら新しい留針のやうである。シモノスワに三哩許上で、甲州街道と中山道と接合する處である。この中山道といふのは東京から京都への中央の山道である。新道はなかなか佳く出來て居て、傾斜も良好であるが、烈しい往來で崩れたり、人力車の轍の痕が全體にあるのであッた。われの人夫は舊道の險阻な處を常に徒歩する、荷物を積んだ人力車は早かッたが、われの乗ッた人力車は二日も遅く着いたのであッた。實に道中は徒歩に限ると思ふたシヲジリ峠からスワを見返ッて、遙に秋の愛らしい空に富士を眺めた。その下には群山が連なり、河や平原が見えるのであッた。中山道の風景は、木曾川の流域へ近づくに隨て佳くなる。第一にはトリヰ峠の頂きで見た、こゝは海抜四千尺といふ事だ。沿道の村落には衣服、建築物、製造物等甚だ不思議なものがある製造物には廉價な漆器、櫛、漬物等で、松葉はこれを大概買求めた。これは日本人は旅行するとその土地の「名物」を土産に買ふて歸る慣習があるのである。
この地方には有名な山が澤山あッて各特種の神と神龕があッて、堪えず白衣を着けて、長い杖を持ッて笠を被ッた參詣者に出逢ふのであッた。それからこの參詣者が木曾川の船路を來るものもあッた。天氣が非常に好かッた數日後、無數の蜻★が川の上に翔けるので、宛ら日を蔽ふばかりで、着物も脱ぎたい位であッたが、俄然劇烈な暴風雨が起ッて、スワラといふ村へと籠城した。參詣者も澤山同じ茶屋へと詰掛けて、一日鈴を鳴らして、撃拆で拍子をとッて、祈祷の歌を唱へて居ッた。翌朝も三時から初めて出發までやッて居ッた。これ等の參詣者の動機は別に悔悟等といふのではない。山地の旅行は甚だ困難なものであるが、日本人は皆健脚家で、單純な生活にも馴れて居るので到る處に、新しみと美しさを感得してこれを文章にのこしてある。日本人の故國の歴史及丈學は彼等の教育の大部分を形成ッて居る。でその各著名な點は、自然美を離れた、口碑や詩的な聯想を有して居るのである。また宗教も預ッて力がある、で寺院や宮龕が神聖であるばかりでなく、各詩的な思想や、英雄的の事績、また崇高な樹木、岩石、もしくは優麗な風景等が、或る神聖なものとなッて居るのである。