通信
『みづゑ』第五十四
明治42年9月3日
此頃は絶えて御伺ひ申さず候だん、怠りやすき夏の日と殊更に御赦し被下度候。
夕陽は西にうつりぬ此處は何處、鶏林の全羅南道、知異山は左に淡くインヂゴーとヱメラルドを溶したやうにて候。
蟾津江は帯の樣に赫い山や濃き緑の森の下を流れ申候。
峰に柴折る山かつや、野邊に草苅る賤の女か
等と形容したくも切角の山はあたら亂伐され候て矢鱈草生ひ茂り候、野邊は展けて樹木稀れ、夏の旅に涼蔭もなう、溪流涸れて喝きを慰すべき清水一滴も無之候、然れど不思議や此亡國を意味する樣な四方の山や川にも場所と地形によりては掬すべき風光佳美稀に視る溪流に岩石の配列面白くコバルトやライトレツトやムーブの樣な色を含むで流れの中に點在する等迚も多摩川上流の比では無之候、其が上に緑樹茂りて赫き涯にニユトラルの蔭を描ひて色の變化は實に妙美に富んで山は紫に水は雪の樣に白い?・・・・拙なき筆にては中々に此詩的畫的趣味に富める風光の十分の一だに現し得ぬを誠に恨みにて候、諒し給ひてよなむ。
幸にして壮健に有之候風土の異なりし土地にて病等に罹りては、死する身は何時、何處とて定めなき假の世に宿る身のならひとて惜みも悲みも無之候も、犬死よ不忠者よと、亡き跡までも後ろ指、指さるゝが殘念にて候故專ら自愛厚く致し居り候へば此段更々御心配御無用の事にて候、是れで死ねば名譽の戦死は大丈夫にて候。
此地は北韓三十五度五分、東經百二十七度五分の地點に位置し有之候。
兵舎は郡衙附屬家屋にて城跡にて候、日本人は兵が若干名と、憲兵が四名と、査公が二名と他に男女小兒等合して十三名有之候て内商店二軒有之候何れも日本雜貨を商賣致し居り候。
他地方に比して比較的清潔にて候、樹木多く流れ川清きが何よりの喜びにて候、暴徒は此地四里四方は平穏にて候も之より外は油斷ならず候、時折は討伐に出で申候も山路多く且つ一般に峻嶮なる爲め骨折一方ならず候、河内の金剛山の樣なのは珍らしからず候、野生は目下事務室で油を絞り居り候傍々酒保を營み居り候、商賣氣の無き候故か轉た放任主義から勘定合ふて金足らずは日常にて候。
何れ追て詳報(が怪しい)差上可申候事として今信は之れにて筆措き申候。敬具。
最後に臨むでは失禮にて候が
貴下を始め一家の幸多からむ事を祈る。
四十二年六月二十一日全羅南道求禮郡
求禮守備隊事務室にて
北山清太郎生