寄書 モデル物語り
△生
『みづゑ』第五十四
明治42年9月3日
美術の淵藪なる佛國巴里の畫學校へは、毎月曜日に男女十四五人のモヂルが來て雇つて呉れると申込をする。直に裸體に成つて體格を見せる、其骨格や肉著が、畫ふと思ふ畫に適當であると、四週間五週間の分を豫約する、學校には唯其の住所姓名を書き留めて置く斗りだが、決して違約せずに來る、併稀れに病氣や其他の事情で來ない事があつても、月曜日に來たのを臨時に補充するから毫も不自由はしない、如何なる物をも撰澤する事が出來るが、日本は若し豫約を外された時は、お三どんや乞食の娘の樣な物でも滿足しなくてはならぬ、又學校以外に畫師は畫室を持つて居る、此畫室は一區域を劃して北方モンマルトルに第一に隆盛で、次は南方モンパルナースで、其外東方西方と有るが、私は南方モンパルナースに畫室を持つて居つた。一棟の中には二三の畫室が有つて、其所にも一日に三人平均位に來て、何でも使つて呉れろと云ふまあー體格丈けでも見て呉れろと云つて見せる、赤髪のモデルが必要なる場合に、赤髪のモデルが來なければ、友人に頼むと直ちに二人位は送て來る。モデルに二種の別が有る、一つは本業のモデルで、重に伊太利人で、佛國に來た祖先傳來のモデルで、夫婦子供も爺婆も一族でモデル營業をなして居る一團がある。其親戚の者も國許より來つて其群に投ずる、其群の中には羅馬の古畫の如き骨格を有する物もある、此特種の顔や骨格を有する者の中に、キリストと稱する者があつた、鬚を左右に分け、髪を長く延ばして肩の邊迄で垂下して、鼻は高く細長く、細面で口髯は簿くて三十二三才位の男で手を垂れて説教する風を装つた、右の手を揚げて十字架上に登つた態度をするのでキリストの畫題を畫く者のモデルには好適であつた、又ギリシヤの勇士クラジセトーフルと稱する美術學校の常雇のモデルは筋の發達が圓滿で、體格はギリシヤの彫刻に酷似してゐた、年齢は二十四五才の壮士で、常に筋肉の發達に努めて居る、ゴオール人と稱するは、大兵の五十才位の男で髪は茶色の胡麻鹽頭で、口髯を支那人の如く垂らして妙な劍を横たへ、天を瞰む態度は、全然ゴオール人其儘で有る。又バツキユス(ギリシヤの酒の紳)と云へるは、六十近き老人で、便々たる腹をもつて髪か長く鬚を生じ、徳利やコツプを風呂敷に包んで携帯し、酒を飲で愉快だと云ふ風を装ふ此等は重に伊太利人で、畫家が適當と認むるゴオール人やバツキコスに使用するから、モデルが自覺して、私はキリストですラジヤトーフルぐすと自稱する、斯いふ風であるからサロンの展覽會には、是も彼バヅキユス、是も同じだと云つた樣に、同一モデルの繪畫が澤山に出品される。