寄書 三山亭より

長谷川繁兒
『みづゑ』第五十四
明治42年9月3日

 自分は今年の夏期水彩畫講習會に出席するんだつたが脚氣と云ふ病氣のもとに行くことが出來ない、それで何處かいゝ所に獨り遊びたいと思つて考へた結果、去年講習會のあつた、奈良、奈良に行くべし、と休暇になると早速出かけた。
 三山亭、自分はこの三山亭に二週間住居することになつた、三山亭、懐しくて致方がない、いま二日四日の近況を御知せせんこれも今年鎌倉へ行けない負惜。
 三山亭に假居して居る自分は、去年大下先生の居られた室に座つた、心持がゝ、室の四隅に自讃の水彩畫を掲げて見た、あゝ、こんな時に大下先生の寫生畫が一枚でも半枚でもほしい、掲げて置きたいと思つた、手紙でも出して畫を貸りやうか知らと思つたことも度々であつた。
 三山亭の姐さんはお松さん、講習會では大分お茶をにごした先生だろう、愛嬌たつぷりな女である。
 三山亭へはお客が多い、自分の樣な畫を描きに來て居る人は少ない、唯一人あつた、名は葉山、姓は潔、自分と同歳の男、一週間程共に寫生に行つたり競争したりした、葉山君は汚い畫を描く人、自分は無茶苦茶に強彩で畫をかくのが、妙に互にどちらも氣に入つた、お可笑しい、汚い畫と云ふのは、幾度となく色を重ねる、自分のはたゞ強く日影が當つて居れば、二倍も三倍も強いガンボージでやつつけた水彩畫、二人共、畫を描きに來て居るのでない、研究しに來て居るんだから、例のお松さん等に見せれら三文の價もないもんだつた、けれどもこれがなかなか得意で、人が何と云はうか、どんな評をくれやうが、ある一つのもののもとにせいせい研究してやまなかつたのが、三山亭に居つての畫の研究、寫生の方法であつた。
 大きい聲で二人、琵琶を怒鳴ると、去年のお方より上手だと云ふ、上手かも知れないが得意にそれから毎晩やつた。
 葉山君はハモニーカをやる、下手だから誰も嘴を容れる者がない。クスクス笑はれて居つた、それにもつて來て自分の芝笛は自信からして上手だと思つたから、葉一枚一厘とするなればハモニーヵが一圓位とするなれば、安くて自由で面白くて、清音で何處でも木のあるところには要求出來る、芝笛の方がどれたけいゝか知れぬ、これも自持の論であつた。
 畫にどれだけ描けたか、自分は三十枚程出來た、その三十枚の三十枚ながら強い光線の強色であるから面白い、葉山君は大分描いた。
 奈良に居つて奈頁を見て、奈良を描いて奈良に俗化しない自分はいつまでも奈良に居たくなつた、奈良は畫趣が豊である、奈良は自分の心と同じ樣な風景である、奈良に生れて奈良に死にたい、そんなことで何になる、奈良は奈良だ、奈良は自分の好む尤もいゝ水彩畫だ、あゝ奈良、あゝ奈良、奈良はいゝ處だ、
 こんなことを葉山君も自分も讃美した程、奈良はいゝ處だつた奈良につゞいて三山亭を思ふ、三山亭、三山亭は自分にとつて又忘れられない名だ。
 三山亭に居つて三山亭の飯を食つて居ることが何となし好くんだ、奈良に居つて思ふこと多し、あゝ奈頁、三山亭、二週間。
 自分はよくも脚氣になつたことだ、こんなことを思ふと嬉しい、けれどけれど、自分が今年鎌倉へ行つたらどれだけ上手になつて歸ることが出來ただろう、思ふと思ふと口惜しい、そこで、來年は何處に開かれても、行きたい行きたい、行つて大下先生と一日でも日をおくつて見たい、自分は自分で滿足の出來る水彩畫を描ける腕が出來たのは、自分の小さい幼い時に畫紙を下さつた藤鳥武二先生でない、また鹿子木先生でもない、大下先生だ、何故にまた自分は、この三山亭で斯んなに悶へるんだらう武二先生は愛知の中學に居られた時、京都に居られた時、あの畫紙を下さつた、そして何か描いてくれと云はれた時に、水彩畫といふてどんなものか知らなんだ、それを自然的に教へて下さつたのが大下先生だ、斯なことを思つた三山亭は、自分に畫のために生きて居るのでない、畫を生かしてやろうと思つて居つたに相違ない・・・・・・・・・・・・。
 三山亭は落日は、あゝ、もう室の内がくらくなつた、今日は朝から二枚も寫生が出來たので、それに滿足して、日中は葉山君と畫の批評をして遊んで居る、それにも倦んで、何となし自分に興奮して居つたから、三山亭よりとして何か、『みづゑ』に出したくなつて、ここまで書き終つた。
(附)奈良での畫題は一番公園地を多く描いた、草若山は三度も描いた、杉の古木は何度失敗したか知れぬ、一番ものになつたのが、大佛の古門、二月堂、奈良の町、等であつた。

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