美術談叢

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第七十
明治43年12月3日

 之は何事でも自分は自分と云ふ考を以て他人に頼らず濁立濁行することです。どうも此頃は畫にハヤリと云ふようなものが有るようですが之は不思儀なわけです。最も近代的とかナンとか云て。印象派のハヤル時分には印象派の畫をかき。派手な色の畫が流行する塲合にはそう云ふ風な畫をかくと云ふことは。時世に遲くれないょうでもあり又世間の受けもよいようではあるが。之が他の仕事ならば兎も角。畫であつて見ると一寸考ヘたいのです。
 近代的の色彩だとか畫風だとか云ふような文句は。日本のみならず西洋の批評家の口にも此頃は往々上るのを聞きます。之も一種の流行かも知れませんが。之が矢張不思儀に思はれます。成程今の時世に古い和蘭風の茶ッぽい畫を難有がる譯でもありませんが。世の外に超然たるべき筈の美術までが世の風潮に支配されると云ふこと。否支配されるのでなく。美術家の方から力めて風潮に文配されょうとすることが可笑しいのです。
 畫家が心配すべきことは我技術の高下如何です。流行の如何では無いのです。畫風が時世に遲れて居つたところが一向構ひません。技術さへ上等ならばそれで結構です。我々は時世を當てに畫をかくのではなく所信にょり只美術のためにかくのです。
 私は畫は自分は自分と云ふ考でやりたいのです。自分は自分であるから人は人です。人が面白い畫を描いて賞賛を拍した。自分もあれを一つやつて見ようと云ふと所謂流行畫になる。獨立心のない憐むべき心がけですが。之は專門家ばかりでなく稽古中の靑年にも克く有る通弊のようです。例ヘば水彩畫にホワイトを使用する人もあれば全く使用せぬ人もある。それを誰々に聞くと用ゐては畫が重くなるから惡るいと云つた。ドチラが本當であらうかなど。切りに人のやり方のみを頼つて心配する杯は馬鹿げた談です。白を使つて見たいと思つたら早速之を用ゐる。用ゐた結果果たして畫が重くなるようならば止めるし。反つて深味が見えて面白いようならば其儘用ゐるまでゞす。ソンナに騒ぐ程の問題ではありません。其他或人は水彩畫は一と通り畫いたらばソット洗つてから又畫くと深く見えると云ひ。或人はドーも洗つては色の光澤を害ふから成るべく洗はぬがよいと云ふ。まるで正反對の談だから之を聞く者の身になれば迷はざるを得ないわけですが。之も論より證據。自分で種々と經験して見ると。洗つたがよいか洗はぬがよいかすぐ分かることです。
 煎じつめると。畫を稽古すると云ふことは自分の確信を得ることです。確信は我經験より來るので人から聞いたことでは確信は得られません。只昔から日本では畫其他技術上の敎授法は凡て人に頼つて稽古するように出來て居ます。即ち秘傳だの何々流何々式と云ふように。皆師匠から聞いて始めて分かるょうになつて居ます。中々以て人は人自分は自分などゝ云ヘた譯のものでない。之が大に害を爲したと思はれます。又研究者の獨立心の發達をも甚しく傷めたに違ひありません。今でも此考が全く拔けぬから矢鱈に人に聞きたがるのであろうかと思はれます。書は元來が我感興にょり作られるものであるから人に關係はないのです。自分は自分と云ふのが當然で人に聞いた處が役に立たぬ筈です。況んや流行を追ふとか時代と件はせるとか云ふことは見當違ひの論です。
 奈良朝には奈良朝の美術あり明治には明治の美術なかる可からずなど尤もらしい議論も聞きますが。何にも奈良朝の美術家が是非後世に奈良朝の美術を遺してやろうと故意に作つたわけでは有りません。只後世から見て奈良朝のが自から奈良朝の美術を表はして居るのです。明治の美術も亦同様でしよう。近代的だのナンのと騒ぐ必要はない。黙つて居ても明治の美術は有るのです。之は只美術家の勉強の如何に依るのです。
 以上のお談も私は破解的の議論を並べる積りでは無い。イクラ自分は自分であると云つた處で。そう云ふだけの資格の無い人。即ちまだ習いたての人達には矢張一と通り先輩に就て道を聞くが順序です。將又自分は自分と云つたからとて。決して他に對して反抗的の擧動に出ると云ふ意味でもありません。畫の道を歩むに就ては。自分は人とは境遇も思想も性質も經験も違ふから勢ひ人のやるようには行かず。又各々が天賦の畫才を盆々磨き我が獨創を發揮することが美術上終局の目的であることを思ふ時は。苟も人を頼まず時世に倚らず。人は人自分は自分でドコまでも成し遂げたいと思ふので有ります。

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