アマチュアの繪
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
大下藤次郎
『みづゑ』第七十五
明治44年5月3日
この頃會友諸君から送られた繪を見ると、是迄幾度か『みづゑ』に繰返して言つてある缺點を、やはり共通的に備へておられる。地方に在て師事すべき人なく研究してゆかうといふには、種々の困難があるが、たゞ無意味に勉強したのみでは上手になれない、批評もきいたり、また先輩の説をも充分味つて、一枚一枚心して筆を執るやうにせねばなるまい。こゝにアマチユア通有を缺點を列記して反省を促すことは無用ではあるまいと思ふ。
まづ第一番に氣のつくのは、形の不正確なことである。どういふ目的で寫生するか知らぬが、鳥渡した走り畫きだから、感じさへ出れば形なんどどうでもよいといふ考の人もあるらしいが、是は大なる間違だらう短時問のスケッチ程、形は正しく取らなければならぬ。毎日通つてコツくやる繪なら、最初の輪廓に多少間違があつても、寫生中にそれを直してかけるが、短い時間に趣を得やうといふのには、彩筆を執り初めたら、形など一々拘泥して居られないから、輪廓の時に充分間違ないやうにして置く必要がある。形に對する不親切な繪は見てゐて非常に不楡快を感ずる。充分デツサンの素養のある大家が、そのやうなとを搆はず、興の趣くがまゝに畫いたものは、其粗末な間違つてゐる輪廓の中にも、動かすことの出來ない締りがあるから、少しも不自然を感じないが、それ等を眞似する若い人の洒落そくなつた繪は見られたものではない。
廣い野原や、不規則の樹木のやうなものは、形の上にゴマカシがあつても目に立たない、このゴマカシに慣れてゐると、建物でも畫く時に直ぐ馬脚を現はす、少し複難な建物や、迂曲した道路などを描いたものに、透視畫法の間違のない繪に殆と無いと言ひたい、如斯は透視畫法の智識の缺乏といふばかりでなく、物を見る眼の教養の不足或は不親切から來てゐるのである。
静物畫に於て、背景又は床に用ひる白布の類の、其感じの充分に出ないのは、元より色や調子も、關係があるが、多くは其形を描くことに親切でないからである。根本たる形が正確にとれてゐると、多少色調の上に間違があつても、兎に角其物質が分る、目的物さへよく畫けば、背景の布などどうでもよいと思ふのは大間違であつて折角よく畫いた目的物が、背景のために非常な損害を受ける場合があることを考へなければならぬ。
繪の中景にある屋根の瓦など、何も其瓦を明らかに畫く必要は無い、見えたなら縱の筋だけでもよい、それすらも描がなくてともよいが、若し縱の筋でも畫く以上は、實物の通りに其筋は規則的であるべきものだ、それをよい加減に斜にやつたり、眞直に畫いたリ、輕卒な筆を使ふと、其一部分だけで無く其繪全體に害を受ける。
畫面に高さ一寸五分程の松原がある、松原の下の平地はどの位ひの廣さか知らぬが、畫面では二寸程あつて、其前に静かな水がある。此水に松の梢が映つてゐる繪を見た、筆者が高い處に居ても平地に居ても、此松の梢が水に映つる譯が無い、これは確かに水に映つて見えたのだらうから、平地の幅は一寸五分以下に縮めなくてはならぬ、即ち平地の幅を廣く見過ぎた輪廓の誤りである。
空と界する遠山の線の、いかにも硬いのが多い、これは寧ろ調子に屬すべきものかもしれぬが、スカイラインのまりに硬く強い爲めに、丁度ブリキ板でも立てたやうな感じがして、遠くにも見えず、また厚味も見えない。此様な注意を幾度しても改めぬ人がある、遠山を畫く時、たゞ遠山と空とばかりを見ないで、他の物との比較ををして見たなら思ひ半に過るであらう。
重ねて言ふ、輪廓は繪の基礎である。佳い繪を描かうといふのには、此基礎たる輪廊の正確といふことを常に心掛けねばならぬ。
次に通有の缺點は、物の濃淡の調子を充分研究してゐない事で、繪の上に於て大切な約束を無視するため。繪の深味奥行といふものが現はれない。景色に對して廣大を感ずるのは、たゞ天地及左右の見界のみでなく、遠方迄も見えるといふ、奥行があるからである。一尺の紙に風景を寫すのにも、上はある部分の空に迄限られてゐる、下は地上自分の足許迄、右も左も視角の及ぶ處、即ち六十度以内に限られてゐるが、たゞ奥行は無限である。空の遠さ、地の遠さ、場處によつては何百里先も盡くる處が無い、其無限の奥行を畫に現はすのは、西洋畫の特長である。然るに多くの繪は、上下左右のみで、此奥行深味がない、隨て繪が平面的に見えて、薄ペヲの感がある、一小部分を畫くにしても、靜物を畫くにしても、常に此奥行といふことを忘れないやうにしたい。
繪に奥行をつけるのには、形ばかりではいけない、無論其色であるが、色といふものは迷ひ易ひから、暫らく爰に區別して、濃淡の調子について研究を積まねばならぬ。
窓硝子の中から戸外の景色を見ると、遠い杉の森はいかに黑く見えても、庭先の木の幹の暗きに及ばない木の幹の暗きは窓硝子の格子や枠の暗きに及ばない,たゞ杉の森ばかりを見ると非常に暗く感じるが、前にあるものと比較すると驚くべき程弱いといふことを發見する、その理屈を知ってゐればよいので、遠くのものは明暗共鈍く、近くのものは明暗共強いのである。
重なり合つてゐるものも、實物を見るとよく離れてゐて、寫して見ると離れないのは、此明暗の調子を間違てゐるからである。遠いものに張い色を使つたり、近いものを弱くしたりすると、前後を顛倒して、遠方のものが前へ飛出して來る。
色の感じは多少似てゐなくとも、此濃淡明暗の調子が整ふてゐると、繪としての價値は高い。一軒の家がある、其軒下は屋根のために必ず暗いものである、それを地に近きあたりの色と同様の調子で畫いてゐる。また神社や寺の軒裏の、地面の日光の反射で非常に明るく見えることがある、其點だけを見て他と比較しないために、日光が直接にあたつてゐる屋根よりも明るく畫いてゐる、これ等は皆誤りである。
濃淡の調子といふても、其階級は無數である。然るに暗いと思ひ明るいと感ずると、いつも最高級の色をつけたがる、こゝに塗りたての黑板塀に日光が直射してゐる、それを黑板塀といふ名のために眞黑に塗りたがる、最高級の暗さを用ひたがる、然るに此板塀に日光の直射せぬ處は、直射してゐる處よりも暗い、其の影の暗い處に、何か物でも立かけてあると、其影はまた一層暗い、其暗い中の板でも割れてゐたり節穴でもあると、其中は更に暗い、此様に黑板塀必ずしも黑くなく、幾十百と濃淡の度に限りがないのであるから、無意識に筆を下すことなく、明暗の度合を充分考へなくてはいけぬ。
色彩に就て尤も注意して貰ひたいのは、繪の寒いこと、色の濁つてゐること、及び乾燥してゐることである。色を見ることに不親切であると、自然界にある種々な複雜な色彩が見えない、空を見れはたゞコバルトに見える、草を見れはたゞフーカスグリーンに見える、見えたから其儘畫面に塗る、甚だ單純な話で調和も何もない、其結果は色の極めて單調な、殆と單色畫と同様なものが出來る。畫家は二三色の繪具で畫いても、畫面には十百色に變化して現はれる。無經驗な入は、十百色の繪具を使つて、二三色で描いたやうなものが出來る。
色の寒いといふことは、單調を意味すると同時に、其繪の感じか貧弱であることをも指す。貧弱な感じの繪は不愉快である。色の富むだ繪は快感を覺える。自然界は寒色はかりでは出來てはゐない、寒色熱色共に相待つてよい調和をしてゐる、アマチユアの繪の多くは此點に於てあまりに寒色を愛し過はせぬか。
色彩を濁らすと、たゞに寫さんとする物の感じが出ないばかりでなく、彩料本來の發色を害するため、後に至りて往々褪色又は變色する恐れがある。繪具そのものには夫々特有の色調があるのであるが、?濁によつて其特徴を失ひ、從つて、澤山繪具の種類を用ひても、其繪をして單調の觀を呈せしむるに至る。
色彩の?濁する原因に種々あるが、下塗の乾かぬうちに第二の彩色を施し、旦それを筆でコスリつけるのも其一つである。下の濕れてゐるうちに、第二第三色を施して成功する揚合、或はさうしなければならぬ場合は勿論あるが、此際は上の繪具はたゞ置てゆくだけて、下塗の色全體でなく、空を一面に塗つて遠山を畫く時のやうに、一部分を重ねてゆくのに過きぬ、それすら注意して下の色に觸れぬやうにする、若し上塗の時下の色を混せ返すやうなことがあると、タトへ下塗がよく乾いてゐても?濁を生ずるのてある。また第二の原因は、あまりに種々の繪具をパレットの上で混合して着色する時で、パレットの上で混せる繪具は二三種位ひにしたい、アレでも無いコレでも無いと、際限なく混せると、發色を鈍らすばかりでなく、後に變色するのである。次は初めに塗つた繪具が自分の思ふやうでない場合に、後にまた其上へ塗る、それもいけぬので重ねて塗る、こんな時にょく色が濁る、此際には初めの繪具を洗ひ取つて、乾いてから着色した方がよい。繪具にポワイトを混せ過たり、又は不透明色の種類を搆はす混合すると?濁の觀を呈す。ホワイトの使用の如きは自由であるが、よく濁りたがるからあまり多く混ぜぬ方がよからう。
紬にに潤澤が欲しい、水は水らしくありたい、草木の紬には其葉は水分を含むでゐる趣が見たい、絡の乾燥してゐるのは落ッキが見えない、生氣がない、青物屋の店と乾物屋の店と見た露の感じに相違がある如く、乾いた絃は不楡快である。
繪の乾燥の觀を呈することは、使用する繪具の質にもよるが、また其色にもよる、技巧にもよる。概して不透明色は乾燥に傾き易い、透明色でもクリムゾンレーキの如きは、他の色と混ぜたり又は紙にコスクつけたりすると潤澤が無くなる。この種の繪具は、タトへば紫色を作るに、最初に或る藍色を塗つて、其上に紅色を落して、紫色を得るといふ風にしたなら光澤を保つことが出來やう。少しの繪具を筆の先で伸してコスリつけずに、タップリと繪具を使へば潤澤のある繪が出來やう。
色彩の調和は、學理上にも定説があるが、經驗から來た方がよい。反對色の必要な場合もある、同感色でなくてはならぬ時もある、それ等に對する取捨撰擇は、自己の経驗と他人の繪を見て得たる智識とが大に役に立つ。色彩の調和は、風景を寫生する場合には、自然界が吾々の考へ以上に好調和を示してゐてくれるから、なまなか自分考を出さず、有の儘を寫してよからうが、靜物畫の場合には自分で組立てなければならぬ。この際物の主客の區別を明らかにするには、色彩の上に尤も關係がある。背景や床の色が、主要の目的物より強かつたり、華美であつたり、又は同一色調であつたりすると、目的物が隱れてしまう。背景は目的物のために必要なものであつて、目的物を引立たせねばならぬ、それには幾分か調子を弱め、色彩の如きも目立たぬものを撰ぶべきである。
綠の木の中に紅昧を帶びた色を加へると深く見える。若しそれを加へず、縁の濃いもの、藍のやうなもので暗い處を畫くと、繪が寒く見えるばかりて、自然の感じがない。吾々の肉眼で無心に見ると、綠の蔭はやはり綠の濃いものゝやうに見えるが、それではいけぬ、色の調利の上、綠の補色たる紅色は必要であることが知れやう、アマチユァの繪には此邊の考が無いため、森の中などの深味が現はれぬことになる。
透明色はよく使用すると、畫面を引締め旦深味のある繪が出來るが、濫用するとフクラ味の無い硬いもの になる。普通風景には、遠景と蔭影は透明色、前景と日向は不透明色、前景と日向は暖色を遠景と蔭影は寒色を用ひ、遠景は明暗の調子が低く重く。前景は調子が強く輕く畫くことになつてゐる、勿論例外はあるが、多くは適用が出來る。
アマチユアの繪の多くは、色が單純であるだけ、華美で原色を其儘塗つてしまふ、空の如きは何等の研究も無しにブルーを一抹して置く、野や畑の綠も、強い色を無造作につけてある。自然は謙遜なもので、決して毒々しくケワケワしいものでは無い、色はよく洗練して用ふべきものではあるが、またある種の人は何等生彩なき弱い色ばかりで繪をこしらてゐる、これも困る、自然界には必ず目を惹くべき何等かの色があつて、多くはそれが主眼點になるので、若しそのやうなものが無くば、點景人物でもつけて補は払ばならぬ。繪の ある部分には生の色もちとは欲しいのである、主眼點即ち光線の府であるから、そこのものは他よりは色も幾分鮮やかに、調子も幾分明らかに見える筈である。
繪には空氣の必要なことは申迄もなく、光りも必要である、また其光りの色空氣の色、即ち其時の色調が、全畫面同一の感じてなければならぬ。朝は空氣に紅ゐを含み、夕は多く黄を含むとすれば、右の家だけ黄の光線であつて、左の木には別の色の感じてあつたのでは統一が無い、この弊を避くるには、着彩の前に、其時の色調で空も地も何も薄くワッシをして置くとよい。
蔭影の色はムッカシイもので、日向の色がモデル通りに出來ても、蔭影は自己の感じ方によっていろいろにも見えるから、正しく調和させるのは困難である。專門家は多く此蔭影の色に苦しむのである。然るに經驗淺き人は、日向の色にのみ骨折つて、蔭影はいつも極まつたものをつけて置く、反射反映によつて同一の物質ても蔭影の色は違ふ、况んや遠近あり大小あり、又物質の相違あるに於ておやで、一ツ一ツ心して研究し着色しなければならぬ。これを思ふと、自然を目の前に置きながら、自分極で想像的色をつけて得々たるものの、進歩せぬは分り切つた事である。
着色については、何よりも第一の色を塗る時が肝要である。油繪の如き、上から塗れは下の色が隱れてしまうやうなものでも、第一着色は大切なものとしてある、まして水彩畫であつて見れば、此一事は實に其繪の死命を制するものと言ひたい、徒らに速成を思はず、まつ出發點から注意して愼重に研究すべきものである。
此外、構圖に於て一言したい。研究のため畫くのなら、書物一册林檎一つ立木一本でもよい譯であるが、其書物も立木も林檎も見る處によつて趣が異ふ、いろいろに置かへて見たり、又は三脚の場處を動かして、一番よい形で、且そのものの特質の現はれる處を捉へるやうにしなければいけぬ。物質や形や色の研究をすると同時に、構圖の研究稽古もするのである。
繪には主眼點が無くてはならぬ、無意味に漫然と描寫したのでは、繪に締りが出來ない、首を動かして見廻はしたり、見上げたり見下げたりした印象は、其儘繪にならない。繪は水平線が一つであつて、一處を一瞬時に見た現象が紙面に現はれれはよいので、時間は畫き出せぬのである。此主眼點を忘れて、何の目的で畫いたか分らぬ繪があるかと思ふと、また幾ケ所も注目すべき處がある、即ち主眼點の各所に散在して、少しも統一の無い繪もある。これ等は搆圖の上からも注意して改むべきであらう。
最終に描法についていへば、一面の繪の中には、細密の注意で畫く場處と、さして大切で無い場處とある、隨つて描法にも多少の手心が入るのであるが、それ迄でなくとも、草も木も家も同一筆法で描き、又は同一方向の線で畫く人がある、これは調子を整へるのに便利な場合もあるが、物質が見えないから善い方法とは言へない。また主點に近い處を馬鹿にアラク描いて、隅の方の屋根瓦や障子の穴迄明細に寫してゐるのもある。また樹木を達筆で畫いて置いて、下草を綿密に描寫してあるのもある。是等は何れも不調和で、見る人に奇怪な感じを與ふるに過ぎない。
アマチユアの多くは、また筆が伸びない。ポッンポツンと如何にも切れ切れに澁りながら書いたもの、又恐る恐るイヂケて寫しなものがある。大膽といふことは相應の自信が無くては出來ぬことで、それを強ひるのではないが、輪廓が充分出來てゐたら、是はと信じた色をパレットの上でよく現はし、筆に繪具をタツブリつけて、伸ひやかな繪を描くやうに、平生から習慣をつけてほしい。そして部分ばかり見ずに、絶えず繪の全體に心を配つて、大タイの調子を忘れぬやうにしたい。繪の調子といふものは、強くも弱くも全體が整ふてゐればよいので、弱い繪の中に極端に強い色があつたリ、又は其反對に、強い繪の中に弱い點があつたりしてはいけない。
以上の話は別に新しい説でもないが、經驗の乏しい人はいつでも知つてゐてよい事である、書けばいくらでも限りがないから、余は他日の事にするが、結局一枚の繪でも寫生する時は、物の見方其他についていつも親切であれと警告して置く。