靜物寫生の話[第十五]

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第七十七
明治44年7月3日

△靜物寫生を水彩畫で描く時も、墨繪の時に話した通り、第一にコンポジシヨンがよくなくつてはいけない。鉛筆畫の時は、形の變化や統一やまた明暗の感じなどで、物の排列を考へたのであつたが、水彩でやるには、其上にモデルの色彩といふことに重きを置かなければならない。
△澤山のものを畫く場合には、其中で一番よく目につくものを主點として、中心に近く置く、たとへば林檎をかくとしたら其林檎の中で、一番美しい一番大きなものを主點とするのである。若し其のうち、色は鮮やかであつても、主點とするに足るべき重みのないものがあつたなら、むしろ取除けた方がよい。
△形の上に於て圓いものと四角なものと一つ置に並べたり、叉は左右同一の場處に、同じ形のものを置たりしてはいけないやうに、色に於ても、同一色調のものと異なつた色との排列も變化ありて、シメトリーにならぬやうにした方がよい。
△水彩で初めに寫生する時は、材料は簡單でありたい、たゞに材料のみでなく、其色彩も簡單のものを選ぶ方がよい。
△静物畫の稽古に、鉛筆で畫く時は、バックは何でもよい。時として無くともよいが、水彩の場合には、是非布なり何なりバックを作らねばならぬ、目的のものを畫いて、周圍を自分勝手の色でよい加減に塗つて置く人もあるが、大家が一寸したスケッチの場合で、充分色彩の配合を心得てゐてやるのなら差支はないけれど、初學の人の稽古には是ではいけない、色彩配合上の研究が出來ない。
△バックの布地は、目的物たるモデルの色彩に應じて、それよりも弱く、そしてよく調和するものがよい、強烈な生々しい色を使用して、調和する場合は殆ど無いといふてよい。
△稽古用として通例用ひられてるのは、純白、クリーム色、各種の鼠色、オリーヴ、海老茶の類で、眞紅や紫や明るい綠のやうなものは、特殊の場合のほか使用されることがない。
△バックといふものは、其モデルをして印象を強める役を持ってゐるもので、モデルは主でバックは從である、そして從の働らきで、主が大に發輝するであるから、たゞある布を置くものだといふ單純な事でなしに、其役目迄も考へて配置しなければならない。
△バツクの色は、自分で自由に變へてはいけぬ、其モデルの工合で、多少明るくしたり又は暗くすることも無いではないが、其本來の色彩は、何處迄も其儘でなくてはいけぬ、何故なれば、色はたゞ一つで發色してゐるものでなく、周圍色彩の影響をうけて、ある現象が出るのであるから、濫りに其周圍の色を變へるとまるで感じの異つたものになつてしまう、試みに紅色を、白い紙へ塗つて見たまへ、決して美はしい色ではない、併し其周圍に緑を塗ると、紅色は非常に引立つて明るくキレーに見える、これは單に紅色ばかりでなく何の色も皆同樣てある。
△布の皺はむつかしいものであるから、最初は皺を作らず、たゞ上から平らに垂れて置くがよい、少しく進歩してから、極簡單な二筋か三筋の皺をつくり、それよりモデルに應じて種々工風した皺を作るがよい。△皺を作った場合に、其輪廓は正確にとらないといけない、此形が間違ふと、いかに色彩に苦しむでも皺らしく見えない。皺を畫くにはよく明るい處と暗い處とを見分け、淡い色を幾十度となくかけて、段々暗くしてゆく方がよい、一遍にやつてしまうと、深味が見えず布の方がモデルより前に出てくる。
△モデルを可なり上手に畫きこなす人でも、バックの布を畫かせると旨くゆかない、それは丁度人物の寫生に、手足がむつかしいのと同樣に、研究が足りないからだ、モデル無しで布の皺ばかり研究するのもよいことだ。
△皺の横斷面は、直線的でなく、曲線的に圓味を持ってゐるものだから、角々しく見えるやうに畫いてはいけない。
△バツクの布の中で、白いものは特にむつかしい。白い色は反映やら對照やらで他の影響を受けることが多いのだから、嚴密に言ふと白といふ色が無いとも云へる、それで、其蔭の色を作るに苦しむで、ある人は紫つぼく、或人は赤つぼく、又は青や黒に近く寒く畫く人もある、場合によつて紫にも綠にも見えるが、とに角白い布の蔭の色は、ライトレッド又はインヂアンレツドに、オルトラマリン、時としてはインヂゴを加へて作つた鼠色を土臺としたなら、粗ぼ似た色が得られやう。
△色を用ひ出すと、兎角明暗の關係を忘れたがるが、バックを畫く場合でも、此處に注意しなければならない。物は極明るい處も極暗い處も少なく、其中間の鼠色が多いのであるから、極端に流れぬやうに、比較研究をなすべきである。
△皺の高い處凹むだ處、何れも圓錐の理と同じく反射があるから、それを無視すると固くなる、また皺があまり明らかに現はれると、モデルと離れなくなる。
△海老茶の布だから、陰は同じ色の濃いのでよいと思つては間違ひで、蔭は他の色を用ひなければ同一の感じが出ない。また海老茶色を作るに、クリムソンレーキにバアントシーナ、之れにインヂゴなリオルトラマリンなり加へるのが通例であるが、オルトラマリンとクリムソンレーキと混せると、乾いから色が浮出す、またクリムソンレーキは、使ひやうが悪いと、乾いてから透明の感じを失ふと白つぼくなる。此繪具は下地を塗つてある上に、たゞ此色だけをタツプリつけて、筆の先でコスらず、其儘置いてくるやうにすると、僅かに光澤を保つであらう。
△バツクの布は、あまりウルサイ模樣など無い方がよい、最も古錦襴といふやうなものを用ひるのも面白いが、その場合でもモデルよりも鮮やかに判然せぬやう心掛けてほしい。
△布の物質の畫き分けも、靜物寫生に必要である。木綿と絹と麻と毛織とは、光澤も異へば皺の感じも違はう、同じ絹でも、縮緬と羽二重とは區別が無ければならない、靜物畫を一枚の繪として畫く場合は別として風景畫をかく土臺として稽古する場合には、この物質の研究は飽く迄やらねばならぬ。
△バックと同じく、モデルを置く床の色も、また大切である、多くはバックの布を其儘長く折り曲げて下敷とするのであるが、色の配合上、他の布を持つて來ることもあり、また時として、机其まゝ叉は疊ヘヂカに置くこともある。物によつては糸ダテとか莚とかの類がよい場合もある。
△床の色も、バックと同樣に、モデルよりも強く目を惹くものは避けたい、判然した模様のあるものもあまり用ひぬ方がよい、絲ダテや莚や、又は疊の上に置いた時、其床の疊の目など、あまり細かく畫いてはいけない、極大タイの調子を見て、趣だけ出すやうにする。
△バックと床との境目は、あまり明らかに筋が見えてはいけない、また床は、平面といふ感じを出すやうに工風されたい、此心持を忘れると床が直立してゐるやうに見える。
△床の布を前へ垂らした時は、其形に注意して、あまり單調でないやうにしたい、時としては一二ヶ所皺を作るのもよい、また布の折目をことさらに見せるのもよい、そして前の垂れた處の線は、水平でなく、少し斜めになるやうに位置を作る方が面白い。
△狭い床の上に、あまり澤山物を載せてはいけない、見る人に窮屈や不安の感を與へてはいけない。

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