偉大なる繪とは何 四
矢代幸雄抄譯
『みづゑ』第八十四 P.4-7
明治45年2月3日
四、新機軸を出す事 偉大なる繪の特質としては、最後に新機軸を出さねばいかぬ。即、主觀を基礎として製作せられたるものでなければならない。此點に關しては、繪具は前述の詩の言葉に、ぴつたり合つて、氣尊き情操の起る土臺となる計りではなく、同時に此土臺を主觀の力、||想像力にょつて、作り出さなければならない。此所が、即、高き藝術と低い藝術との區別のある所で、低い藝術は省像だらふが、景色だらふが、静物だらうが、只、眼前の物を其儘、其通りに寫す計りなるに、高い藝術は之と反對に、次の二途の内、何れか一方を取る。||即、其題目を全然想像から生み出すか、又は、既に有る材料を使つては居るが、其を組立るに、畫者の主觀が明瞭に表はれる樣にする。勿論此、兩者の中間にあつて、一方に記述的描寫的にして、又他方に、想像的詩的なものもあるけれど、此兩者の區別は動す事は出來ない。
偖、單純なる記術的藝術も、亦其道では仲々貴重であるに相蓮ないけれども、其中に詩的分子、即、主觀の産み出したる分子が入つて來るまでは、偉大なる藝術と云ふことは出來ない。此想像力を發揮する程度に從いて、藝術の程度は上る。最高なる藝術に至つては、全然主觀に産れ出でたるものである。
尚進んで論ずれば、想像的、主觀的な藝術は常に記述的描寫的より廣くつて、後者は前者の範圍内に含まれて居るのである。何となれは、想像と云ひ、主觀と云ふも、皆過去に於て白分の頭腦に蓄積したる知識印象を取扱ふに過ぎないからであろ。創造と云ふ事は如何しても出來ない、想像から産み出すと云ふた所で、只、過去に得たる外界の記憶を、種々に結合、排列する丈である。而して、記述的の分子が、想像に産まれた畫の中に含まれる工合は、至極簡單で直ぐと解る。例へば、ハントの『此世の光り』なる、素適な詩的想像的の畫を取つて見るに、其結構思ひ付きは、純粋な想像の産出物ではあるが、其組立つた材料は、單純な描寫から成立って居る。壁に纒ふ蔦、地に這ふ草、月の光、寳石の燦めき、皆忠實に自然から研究し模寫せられて居るのである。偉大なる藝術の特性は畧ぼ前述の如くである。今、此等の要素を綜合して考へて見ると、眞に全要素を完全に具備した藝術を生むには、人開の力總體、即、人格其物の偉大なる事を要するのである。第一、高尚な題目を擇ぶには正統な道德的判断を下せる人でなくてはならぬ。第二、美を要求するには、正統なる賞讃感嘆をなし得る事が要件で。第三、眞を捕捉するには、知識秀で、判断公平にして、目的亦た直でなければならない。第四、詩的想像力に富むには、發明の才、溌溂として、歴史的回顧正確を要する。||是等を合せて見ると、全體で人格の力になつてしまふ。即、吾人は、藝術に正しく「偉大なる」と云ふ形容詞を付す事が出來る。文字通り、「偉大なり」と云ふ事が出來るのは、其が人の精神全體を包含するからである。此等特性を、全部具へて居ない藝術は、圓滿に、全體の精神を發揮させたので無いから、此語をもつて許す事は出來ない。藝術は、其表現する觀念の多少によつて、高下を定める事、上述の如くだから、藝術を形容するに大小と云ふに正當でなければならない。偉大なる藝術とは、最太なる觀念と情操との最大多数を示すものである。
偉大なる藝術の要素は、斯く多趣多樣であつて、其要意は、皆互に關係なく、中には矛盾した樣なのも有るから、偉大なる畫家達は、其總量に於ては同一であつても、其要素の割合は、各個性に從つて異つて居る、例へばアンゼリユは表情の清澄で優り、ベルニーズは眞實に於て、レオナルドは美に於て、其長所を有し、然も其各要素の総量に於ては相異る所が無いのである。是、藝術家の月旦に際して、異論百出の源であって、斯る異論を吐いて得意がる人間は、「高尚なる藝術は、どれも、これも、同一にして、偉大なる畫家は、皆同一程度に、全要素を具備して居るもの」と決めて居るのである。
林檎には林檎の美がある。桃にほ桃の美がある。桃、林檎は、各自、其天分の特色を發揚して初めて味があるのである。人間も同じこと、其個性の伸長發展に於て、初めて意義がある。各人同一程度に、各要素を具へて居ると信ずるは、愚も亦甚だしきものと云はなければならない。
斯く論調を進めると推論は斯樣なる、「人間の優劣、大小は、斷然、殘酷にも運命の手によりて、其出生の時に、定められてしまふ。敎育、薰陶、順境、決心、勤勉、||是等は役に立つ。||即、萌え出した芽が、生長するか、しないか、の點に關して、之を定むるものは、是等の諸條件のみである。さりながら、第二の天性と云ふたとて、勉強と云ふたとて、人爲では、桃を梨とする事は出來ない。境遇の順逆、決心の強弱、遂に天分をば如何ともする能はぬので、各人は其賦性を發揮するに止る。吾人が各人に望むは、天分發揮にあるので、偉大なると、眇小なるとは問はず、桃は桃として、梨は梨として尊ぶのである。
斯樣なわけであるから、「偉大なる藝術」を各生徒に敎へねばならぬと主張する敎育は、そもそも其根抵から間違つて居る。偉大なる藝術は敎へらる可きものでない事は、過去の歴史も證して居る通りで、將來も敎へられはせぬ。是は偉大なる人の精神が迸り出でたる結晶に外ならないのである。
問題は直ぐに起る。爲めになる敎育とは何だ?||吾は斯樣答へ度い。生徒が感ずる事の出來る氣高き感情を、其心の中にしつかりと動かぬ樣に植ゑ付けるのが、第一着手である。其生徒が、今に、筆を揮つて、チジァンの樣に畫くとか、刀を握つて、ミケル、アンゼロの樣に刻むやうになれるかも知れぬ等と、揚言する事なく正直に畫け、解つて畫け、正直に、解つて、畫く可き義務があると説くのである。そして、生徒の感情を軟かに、思想を確かに、習慣を清く養い、彼を導いて、生涯、虚僞を去つて天眞に附き、幻影を眞實に附き、腐敗汚濁を去つて、道美清澄に附く樣にさせる事||眞に爲めになる敎育は是を措きて他に無いと信ずるのである。