飯坂と鹽原

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第八十四 P.8-14
明治45年2月3日

 水道端へ來ると、脉めもまぶしくない朝日が眞ともに照して、顏にあたる、風にやゝ冷めたく覺ゑました。研究所の人達は、まだ夢の眞中らしく、ひつそりと音もしませぬ。
 發車の二十分前に上野に着いて、一の關行の汽車に乘りました。日光にゆく人などあつて、車内は可なり混み合つて居ました。麥には穗が見ゆ、田には苗代が芽を出して、窓から吹入る風は若葉の香りがします。寒からず暑からず、心地よきまゝうとうとと、幾驛かを知らずに過ぎました。
 乗合分人達は面白さうな話をして居ます、九州線は驛名がゴツゴツして居る。東海道もなだらかでない、ひとり中國筋は耳障りのよい名が多い、尾の道といひ、糸崎といひ、須磨、舞子、明石と、何となく床しい名がある、東北線に隔大宮、雀の宮、宇都の宮、本宮など、宮の名のつく驛多きは、何か謂れのあることかなと、夢うつゝに耳に入りました。
 那須野、黑田原、黑磯と、この邊へ來ると、左に高い山が見ゑます。那須岳からは白い煙も昇つてゐました。
 沿道の草叢の中にぼ、紅ゐの躑躅が吹いてゐます、黑磯邊では八重櫻の盛りも見ましたが、しかし何處も靑々と、初夏の心持は充分でした。
 福島近くなるに連れて、吾妻富士が見ゑます、頂きは雪に白く、霞が深く鮮やかには見ゑませぬが、美はしい形です、此山は是非畫かうと思ひました。
 二時過に福島に着きました、停車場の前には飯坂にゆく輕便鐵道があります、電車よりは少し狭い車室一臺、それに小さな汽鑵が着いてゐます。乘込むでから久しく待たせました。客は、時間前でも早く車へ乘せたらよからうと、乘らぬ前は待遠しがるものですが、さて乘ってから出ないのも焦れつたいものです。漸く動き始めるかと思ふと停留場で手間をとろ、チヱンヂの場處で待合せる、汽鑵に水を入れる、石炭を積む、飯坂迄僅かの間を、動いてゐるより停まつてゐる時間の方が多いのでした、こんなことなら長岡迄汽車に乗つて、それから俥にしたものをと後悔しました。束は福島の市中を少しばかり通ります、その僅かの問に、人事周旋業といふ看板を澤山見ました。町外れから海老茶袴を穿いた七八人の小娘が乘りました、何れも良家の娘と覺しけれど、其質素な樣子は東京では見られぬものでせう髪は雅兒に結つて、それが言ひ合せたやうに亂れてゐました。袂から毛糸を出して編物をする兒もあり、小さな菓子を、人知れず口に入れて濟ましてゐるのもありました。
 阿武隈川のほとりと思ふあたり、低い山に地辷りの跡が大きく、西日に輝いてゐるのが目につくばかり、沿道の景色は、格別注意を惹くものがありませんでした。飯坂の手前、湯野の入口、十綱といふのに、車の着いたのは四時頃でした。
 此處から飯坂の宿のある處迄は、可なり道程があります、俥に乘つて暫くゆくと、有名な十綱橋で、太い鋼鐵で釣つてあります、橋の上から眺めると、摺上川の岸に、温泉宿が五屋六屋と建並むでゐて、變つた景色を見せてゐます、川が信夫と伊淫の郡界ださうです。
 橋を渡つて少しく坂を上ると、若葉町とペンキで書いた太い柱の門があつて、其の中には娼家が五六軒、大さうな構をして並むでゐます、紺の暖廉には白く定紋が染出してあり、若いものは其前で打水などしてゐます。俥はこの廓の中を通りぬけると、間もなく花水館といふ宿やの門を入りました。
 狹くとも都かな處をと注丈したら、明日は御注丈通りの御部屋を明けます、今晩はこちらでと、奥の四番といふのに通されました、八疊が二間續いてゐます、床には淡紅の牡丹が一輪、違ひ棚の傍には金屏風が建てゝあります、火を繼ぎ茶を運ふ女中は、世帶崩しと思はるゝ三十あまりの厭やな女です、宿の妻君は、女中が馴れませんで行届ませぬと、わざわざ斷りに來ましたが、不馴なら詮方もありますまい、代って貰ふのも氣の毒です。
 家は高い處にあり、湯は崖の中途にあるので、そこ迄ゆくには、長い廊下と澤山の階段を下らなければなりません、階段の數は八十級程もあります。浴槽は清く、大理石で疊むであつて清らかです、湯は香りも無く色も無く、美しく透明してゐます、窓が大きく、明るく晴々しいのが、何よりも嬉しく思ひました。福鳥にも近かく、仙臺も遠くはない故か、膳の上も賑やかでした、電燈の明るいのと、便所の新しいのは、快よく感じました。(五月九日夜)
 湯からあがつて、澤山の階段を登るとがつかりしてしまいます。食事をすまぜ、コーヒーの入つた牛乳一杯、それから身支度して、摺上川の奥へと志しました。
 飯坂の温泉は、も少し山に近い處と想像してゐたのが、來て見ると、あたりに山あれど高くはなく、溪流も幽邃の趣がありません、特に近來の出水で、崖崩などあつて、石に苔なく、岸に樹木なく、何となく殺風景に見えます。
 宿の前の廣道をゆくと、小川があつて、三四軒の温泉宿がある、その間の橋を渡り、田甫道を縫ふてゆくと、穴原の温泉といふのに出ます、格別心を惹く景色も無いので、更に後へ道を南に取つて參りましたら、小流れがあり、橋があり、少し下り坂の、日に照らされて白く輝く道が、?曲して面白い形になつてゐるので、こゝに三脚を据へました。坂の上の古い松には紫の藤の花が低く垂れて咲いてゐました。
 春霞と申すのでせう、日の光あかく、四方は朦朧として、近い山もたゞ一色に、遠山はあるか無しに、僅にそれと知らるゝのみです。繪が出來てから、なほ南へ下つて、飯坂の町の、福島街道に出るころ、遙か西南に、幽かに雪の山を見ましに、これが吾妻山で、東吾妻、西吾妻、吾妻富士など、高さを競ふて、屏風のやうに並むでゐます。明日はあの山を何處から寫さうかと考へながら宿へ歸りました。
 二三日前迄は、霜がおりるかと思はるゝ程寒かつたさうでしたが、今日あたりの暑さは、まるで土用中と變りがありません、浴衣一枚で居ても、まだ扇でも欲しい程です、湯に入つてから少しは凉しくなりました。
 奥の一番が明いたので、移ってくれと申ます、いま居る部屋も惡くはありませんが、二階で彈く三味の音も、明らかにきかれます、隣りの部屋の赤子の泣き聲もします、奧は極々靜かですと番頭の話に、それならばと移ることにしました。
 室はやばり八疊二間ですが、前のよりは少し立派です、床にはシヤガの花が生けてあります、硝子箱に入つた二尺あまりもある蜂の巣が、飾りとして置いてあります、精巧といへばそれまでゞすが詰らぬものです。
 日が斜めになつてから、寫生箱を持つて湯野の公園へゆきました、十綱の袂には、菓子や果物を賣る屋臺店が出てゐます、建並ぶ家のゴタゴタした形も面白く、道路を主題としたなら、いくらでも繪が出來るでせう。橋を渡つてから上の方へゆくと兩側に宿屋があります、二階で肌脱ぎになつて酒を飮んでゐる人もあり、三階で三味を彈かせてゐる人もあります、湯の町と云ふ心待は、このやうな處にもよく現はれてゐました。
 公園といふのは、青梅の金比羅山に似た低い丘の上で、松の腰掛が澤山あります、此の上から見た四方の景色は、壯快で、折から十日ばかりの月が、東の空に高くかゝり、下は例の赤く地辷りのある山々、阿武隈の流など見えて、見晴しは可なりよい處です。吾妻山に夕靄に包まれて、所在さへも分りませんでした。
 山の上から東の方を見て、スケツチを試みました、半にも到らぬころ、薄くらくなつたので、道具を仕舞はうとすると、直く近くからカサカサと音させて、蛇が麓の方へ走り出しました、今日は蛇でも出さうな日でした。
 朝の電燈の輝いてゐる若葉町を通りますと川添の葉櫻の木下闇に、化粧した遊女が一人。伏目勝に佇むでゐました、その物思し氣な風情が何となく憐れでした。
 宿へ歸つたのは七時ごろ、今日は團體の客が來たとか、手が廻らぬかして、八時過に漸く夕飯にありつきました。仙臺が近いからとて、鶴千代の眞似は爲たくはありません。(五月十日)私の居る部屋は、離れのやうになつてゐるので、内から戸締りが出來ます、朝は戸を明ける喧しい音もきこえず、ゆるゆる休みました。
 湯へ往つて見ると昨日着いた團體の客といふので、混雜してゐます。隣りの家人用の方に入りました、板一重で、手にとるやうに人々の話がきこえます。此の人達に宇都宮から來たので、松島見物の帰りであるさうです、湯の美しいのを褒めて、伊豆の七湯などはとても及ばぬと申してゐました、伊豆なら七島でせう、箱根と聞違へたのでせう。
 町から八丁離れた處に、鵬公園といふのがあります、登り五六丁で、上は廣場になつてゐて、昔し城でもあつたやうな土地です。私はそこへ往つて見ました。木を伐り果樹を植へるので、土は堀返して、赤い膚を現はしてゐます、そこに日が照らして、目も眩むやうに暑さを覺えました、山上からの眺望は、湯野公園の所ではありません。西の方には吾妻山が高く聳え、雪は霞たつなかに明かに見えます、前には大笹山が、快よい二筋の地辷りを見せて橫はつでゐます、南の方は伊達信夫の平野で、前を流るゝ赤川は、後ろをめぐる摺上川と合して、遠く迂回して、はては霧の中に消えてゆきます。丘には形面白き松多く、足元には色鮮やかな紅ゐの躑躅が、さかりに咲いてゐます。
 櫻の木の下で寫生箱を開きました。吾妻も、大笹も、赤川の崖も、松も、躑躅も、畫中のものになりました。
 宿に歸つて新聞を見てゐますと、上品なお婆さんが參りまして、少しく物を伺ひたいと申します、東京の人で、三人連で松島を見物し、こゝへ來たのですが、明日は東山の温泉へゆき、歸りには鹽原へよつてゆかうといふのです。若松の東山へゆくのに、郡山で汽車を乘換へることは知つてゐますが、鹽原へは小山で下りてよいかとの問です、西那須野で下りるやうに、精しく地圖を書いて敎へてあげましたが、このやうに地圖も知らずに、よく旅が出來たものだと感心しました。(五月十一日)
 今日も鵬公園に登つて、昨日と前のところから雪の山を寫しました。物の音といふものは、途中に遮ぎるものが無いと、可なり高い處まで聞えるものです。遙か下を流るゝ赤川の水音は、その流れが緩いので、音をたてませぬが、其川に棲む河鹿の、珠を轉ばすやうな清い鳴音に、この山上にまでもきこえて、心が自から澄みわたるやうこ覺えます。
 暑い最中を宿へ歸りました。もう程なく松蝉も鳴くことでせう、桐の花は、風も無いのに絶えず散ってゐます。ひる過て間もなく、しとしとと雨が降つて來ました、新に玉水の音せぬ程、庭の敷石の色かはる程、糠の樣に細かでした。表の方でも、表の方でも、頻りに鷄が鳴きました。
 飯坂の温泉には、ラヂユームを多量に含むといふ、ことが傳へられて以來、ラヂユーム煎餅、ラヂユーム餅と、名物の菓子が殖へました、今日は宿の婦さんに賴むで、昔からある家賓餅といふのを求めました、道明寺の粉で作つた餅を、賽の目に切つて、砂糖をかけたもので、絡別變つてもゐませんでした。(五月十二日)
 咋年、仙臺から歸りに、桑折といふ處で、面白い山を見ました。可なり高い頂上から麓まて幾筋かの地辷があるので、いつかは繪にしたいと思ひました。飯坂から桑折迄は一里半、鵬公園から見ると、道に平凡らしい、輕便で長岡へ、それから汽車と乘換も面倒、歩いて行くには陽氣が暑過る、それで俥を雇ふことにしました。
 一筋道を東へと俥は走ります、右も左も桑畑で、小高い處を通る時には阿武隈の流れが白く見えます。桑折の町に入る頃、地辷の山が見えました、銀山とよぱれて、一年に幾寸か押出して來ると云ふので、地質學上有名になつてゐます。
 長い淋しい町を出離れると停車場で、其坂下で車を下りました、車夫がいかにも善人で氣持がよいので歸りにも乘ることに極めて、荷物を持たせて小さな丘を登りました丘の上には畑があります、少しゆくと、小松や躑躅の雜木原があつて、そこから見た銀山は形がよいので、三脚を据へました。
 山は去年八月の雨で、更に大なる崩壞があつたので、前に見た時と趣が異なつて居ります、二筋三筋の際立つた地辷りでなく、大きく幾筋にも分れて、落ちた土は途中に堆積してゐます、畫かうと思ふた興味の大部分は失はれましたが、折角來たものだからといふので、筆を探ることにしました。
 興が乘らないのと、風の強ひのとで、一時間程でやめて、殺風景な元の道を歸りました。野には雲雀が啼いてゐました。
 一番の座敷の襖を代へるとかで、一夜さだけ、二階に移つて呉れとの賴みで、北向の六番といふに、通されました。二階の座敷は、いづれもぐつと落ちます、電燈も暗いやうです。
 川を隔てゝ、向ふの宿から、頻りに絃聲がきこえます、琴の音は遠い方がよく、三味の音は近い方がよいと思ひました。(五月十三日)
 朝のうち、再び一番へ戻りました。襖はまだ出來ません、部屋の仕切には金屏風を廻してありました。
 空はうすく曇つて、稍寒くなりました。鵬公園へ往つて、平原を見下した眺望を一枚かきました。日曜日のためか、村の子供が來て遊むでゐます、離れて見ると美しいといふては、二間三間、はては五間も十間も離れて、キヤッキャッと騒いでゐました。午後から雨になりました。久し振で板屋うつ音をきゝます、旅の雨は詫しいが、また心が落ちついてよいものです、雨のためか、急に塞く肌着二枚を重ねました、手は自から火桶に引よせられます。(五月十四日)
 昨夜に可なり烈しい雨でした、今朝目さめて見ると軒近く雀の聲が頻りに、戸の節穴からは日が射してゐました。風が強ひので、今日は一日外出しません。昨日以來烈しい寒さで、一ッは戸外へ出る氣になれないのです。
 明日は此所を出發して、鹽原へ行つて見やうと思ひます。鹽原のことを書いた文章を見ると、よほど面白い處のやうに思はれるが、繪を見るとあまり感心しません、とても私の趣昧には合ひますまいが、名高い處ですから、序ながら寄つて見やうといふのです。
 飯坂は長岡停車場からは一里に近く、道も平らであるため東京と仙臺とを往復する人違が、中休みに來るので、四時客は絶えないさうです。晝に來て夜に發足のもあり、一夜泊りでゆくのもあります、今夜も客が立てこんで、私の居る次の間を借りたいと申て參りましたが、襖が無く屏風立廻しに氣がさすかしら、見に來た客は皆他の宿へと參ったやうです。(五月十五日)
 長岡まで俥、それから汽車の客となりました、雪の吾妻山は、久しい間重窓を離れません。二本松あたりに來ると東吾妻が最も近く高くなつて、吾妻富士、西吾妻共に幽かに著しく低く見えます、飯坂あたりで見るのと反對になりました。
 須賀川と申ところ、停車場から二十五丁、牡丹園があるさうで、停車揚の構内に幾鉢か飾つてあります、こゝで下車する人多く、私の居る室も殘る客は二三人になりました。
 二時西那須野で下車して、今度は馬車の客となりました。何處も同じことで、馬車はなかなか發車しませぬ、客が可なり一ぱいに揃つたころ動き初めました、構造は惡くもなく、さして窮窟でもありませんでした、歩いたならさぞ詰らないだらうと思はる、眞直の單調な道を三里、少し宛の上りとかで馬は驅け出したり靜かに歩行いたり中々捗取りませぬ、右も左も丈の低い雜木林で、躑躅がちらほらあるのでいくらか目か慰めるやうなものゝ、關谷迄三塁の道を、二時間あまりもかゝつたのにはうんざりしました。
 關谷からは鹽原迄二里半、山に入って上りもあれどまた下りもあり、駒の歩みもいくらか速になりました。常川の川の岸をゆくので、國有保安林だけあつて、樹木が茂つてゐて、眺めは惡しくはありません、車の上から深い深い谿を見下すと、新綠の木の間から白く流るゝ水が見えます、古い木にはいま綻ひそめた紫の藤の花か絡みついてゐます、左は崖で、橋のある處には必ず瀧があります、何とか名のあるものでせう。
 福渡戸、門前など過ぎて西那須野から四時間、俥は漸く古町へ着きました、見た處温泉宿は離れ離れにあるので、何處も賑しい町はなく、また其旅館も、二三を除ひては美しからぬ樣子に見えました、宿のよいのは、福渡戸のますや和泉屋位ひのものです繪を畫くのには古町がよいと馬車屋の小僧が申ますので會津屋といふのに泊ることにしました。
 古町の入口には橋があります、此橋のあたりは、物になりさうな處が二三ヶ所見當りました。宿の前にも大きな杉があります、雨でもふつたら宿の中からでも畫きませう。
 會津屋は古町ではよい宿屋でせう、併し飯坂の花水館とは比べものにはなりません、二階の梯子段のわきの小さな部屋に通されました、浴衣が汚れて居るので、氣味惡しく、洗濯したものと取り換へて貰つて、湯に入にゆきました、湯は少しく透明を缺いてゐますが浴室丈けは新しく不快ではありませんでした。うす暗ひ洋燈の下で日記を書いてゐますと、宿の小女が來て淨瑠璃がありますから、聞きにおいでなさいと申ました。この一言は何となく湯の宿といふ感を深くさせます。
 鹽原は存外淋しい處だと思いました、夏にでもならなければ藝者も居ないさうです、それに土産物賣る店もありません、やはり温泉は箱根か熱海に限るやうに思ひます。(五月十六日)
 今日は此處を立つて福渡戸のよい宿屋にもう一泊するつもりの處が、大陽に暈が見えるので、明日の天氣が氣になつて東京へ歸ることに極めました。
 宿の三階から河原の大柳を寫しました。日があたつて調子がむづかしい、昨夕見た時の方がよかつたやうです。十時頃會津屋を出て。橋の袂の河原へ下り、瀧の下から橋をかけて、新綠の樹を寫しました。綠はいま實に美はしく、梢のあたりは殆ど紅ゐに、まるで秋の紅葉と見まがうやうです。
 更に下流にスケツチして、見物がてら歸ることにしました、鹽の湯は景色のよい處で、鹽原に名高い瀧の多くはそこに集まつてゐるさうですが、時間の都合で此次に延しました。
 鹽原は數ケ所に温泉の分れてゐるためか、町らしい處はありません、宿の可なり立派なのはイキ戸位ひのもので、他は皆都の紳士淑女の御泊りには不充分でせう。
 馬車は午後からは無いので、福渡戸から俥に乘りました、僅かの賃錢の相違なら、馬車よりも俥の方が危險もなし、四方が見えてよいと思ひました。老車夫は名所々々に俥を停めて一々説明してくれました。關谷迄の間には大きな景色の處が澤山あつて、鹽原は中々捨てがたい處だと思ひました。
 關谷では、茶店に休むで名物の團子も喰べました、よく搗いてあつて田舎にしてはよい昧のものです。
 關谷あたりの柿の若葉が何ともいへぬ美さで、こゝに泊つて描いてゆかうかとさえ思ひました。
 單調の道を西那須野へ一直線に、俥は走りました、此道には車夫も閉口すると申ます、特に夏の炎天には耐えられぬ苦しみであるさうです。
 車夫によくいろいろの話をしました、いまは神にさへ祀られてゐる通庸氏を、三島三島と呼ひ捨てにして、其人のことなど何くれとなく物語りしました。
 松方の別莊はあの奧だとか、大山は何處だといふ風で華族も元帥も眼中には無いのでした、大臣の月給を其儘使はず、一生涯溜めたとて高の知れてゐるものだ、それに松方など、此處ばかりも三千町歩の大地主だ、どうして金が出來るのかなど、平凡なことを頻りに喋つてゐました。西那須停車場で、二時間も汽車を待つて、夜の十時無事上野へ歸りました。(五月十七日)

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