相州眞鶴崎より
三宅克己ミヤケコッキ(1874-1954) 作者一覧へ
三宅克己
『みづゑ』第八十四 P.17
明治45年2月3日
僕は七日に東京を飛出して此方に來た。飛出したと云ふと君、大變な威勢の樣だが、其實餘程まごついた。明日の朝出發と云ふ眞際に君、未だ肝心行先が趣まらないじや無いか、隨分呑氣だらう。
冬の旅は何時も行く先に迷ふよ、繪を描くに都合の可い場所と云ふと、君これで中々場所が無いものだね。房州や、東海道の興津、三保邊に暖くて可いが、君名物の強い西風が吹いた日にや寫生等とそんな呑氣なことに云ふて居られない、そんなことを考へると君矢張り東京に居て火鉢でも抱へて居た方が無事と云ふ落になつて了ふね。
兎に角六日の晩は君!僕は行く先を趣めるので、地圖など擴げ散らして研究したものだ。色々考へると迷つて了つて、何處へ行つたものだか一向解らなくなる。處が君、やつとのこつて眞鶴と畧見當が附いた。
眞鶴の模樣は未だ誰からも聞いたことはなかつたが、此邊は度々往來したので、奈何にも工合が可ささうだと思つた。
西と南北に山を扣へ居て東が開いて居る許りだ。西風が吹ても強く當る氣遣は無し、それには贅澤を盡す都人士が未だ這入こまぬから土地の風も質朴に違いないと思つた。
成程、來て見た處が君、總て僕の想像通りだつた。確に暖い、又風も高い山で防で居る。第一村の人々が非常に質朴で親切だ。寫生をやつて居ると君、近所の家で茶を飮めなんて云ふ。
村は山の中腹から海岸に下つて家がビツシリと建て並んて居る、狭い往來が坂となつて村中縱横に通して居て、その往來は君、何所も一面に石で敷話あてあろのだ。又某店では驢馬に小車を引かせて物を賣つてるのな見懸けた。スマルト色の相模灘から暖い潮風が吹て來る工合と云ひ、密柑の樹が山々に繁茂して居る模樣と云ひ、數石の小道、又その驢馬が往來する姿を見るに就けても君!僕は伊太利の地中海沿岸の光景を聯想したよ。今日も山の上で畫架を据えて居ると國府津、伊東間の汽船が黑煙を吐いて眞鶴崎の彼方を奔つて屠た、何だかその船が君、ゼノアを出帆してこれからサンレモ邊へでも通つて居るものゝ樣に思にれてならなかつた。君是非一度來て見給へ僕に欺されたと思つて。
夏も掠しいさうたが僕は寧ろ冬の寫生地としてこの眞鶴を世間の人々に知らせたいと思ふのだ。詳しい事は何れ歸つてから話さう。失敬
一月十三日の夜
K、M、生
○○君
今夜この手紙を書て居る間でも火鉢はスッポロカンだ、東京に居ては君信じられまい。