信濃高原の雪

茨木猪之吉
『みづゑ』第八十四 P.18-19
明治45年2月3日

 信州でも、この淺間高原には、比較的雪の量が少ない、最も風が烈しいので、大抵な雪は北上州方面へ吹き飛ばされてしまふ數に谷谷の窪地にあまり、隨て平坦な處には、割合に少ない、あつても趣めて少量に過ぎない、で此の高原地に降る雪は、主に奨霙の樣に凍つて、ばさばさしている、冬季から初春に掛けて、一番多く降る、信越の國境、飯綱山や、黑姫妙高山附近の雪になると、信州でも、まー一番多く降る、五六尺ぐらひは珍らしくないさうだ、往來が杜絶してしまう、たゞ灰色な空が押し懸つてくる、何處を見ても、雪で蔽はれている、住民は殆んど遊んでいる、早く雪解がして、花が咲く時を樂んで待つている。信州でも東南になると、其んな事はない、餘程山奧に這入なければ、其れ程の事もない、多く降つて二三尺に過ぎないから、北信に比較して最も樂である、それに高原地の雪は、急ぐに解ける、北信の雪は、東南と比較して雪の性質がちがふ、純白で綺麗であるのみならず、非常に粘氣がある、恰度メリケン粉の樣だ、又遠くから見ると石膏を振り懸けた樣に感じる、殊に山などの雪は、日本海浩岸からと、俗に妙高下し、猛烈な風が吹雪となつて遠慮なく降つてくる、降つてくると云ふより飛んでくる。
 淺間高原とか、八ツ嶽高原の雪は、晒ら晒らしている、水彩などには、最も適當だと思ふ、遙に日本アルプスの雪は、朝の日光を、眞ともに受けて、美しい實に壯觀だ、殊に晴れた朝などは、山が紫色で、碧い空が絶體に高い、其の色彩が最もいゝ、繪にするには餘程困難である、あの透明した色彩は、寧ろ水彩的だと思ふ、柔かい筆で、氣持ちよく寫したらいゝと思ふ、北國の雪となると、餘り多量なのと、濃淡が極單で、深味があつて、重つくるしい、色彩の強烈な爲め、極めて印象的に、刺激される、隨て水彩よりも、寧ろ油繪に最も適當だと思ふ。
 信州では、晩秋、初冬よりか春先、二三月頃が、雪の盛りだ、冬枯れた高原の北の方、日本北アルプスから、冷たい風が肌に觸れる時には、高原の空が灰色に蔽はれて、かなたの稻叢からも、こなたの枯木からも、幾群の烏が、カァカア啼き出して、丘から丘、村から村と、何れかへか消てしまう、其の日に必ず裾野が、グレー色な、重くるしい雪に抱かれて、山が見えない、泣きたくなる程壓迫される、天と他が今にも密接するかと思ふ、今迄で野原で、小供がふるへながら凧を揚げていたが、急に風が絶へたのと、周圍が暗くなつてくるので、糸を巻いて歸へる、暮れ方時分から、ちらりちらりと降つてくる、はては綿をちぎつた樣な、太きいのがやつてくる、高原一帶が、見る見る内に、眞白になる、寂寥な内に夜になる、信濃の高原の特色だと思ふ、又雪の降る夜は、周圍が馬鹿に明るい、木に積つた雪が、時々下に落つる昔が、ぱさりと聞ゆるばかり、靜寥の境に入るのは、雪の夜だと思つた、幾日も、幾日も、絶へ間なく降り續く事があるが稀だ、晴れた朝など、眩ゆい程目光の反射で光つて目を害す、もし凍つてる場合は、小供が悦んでスケイトで遊びまはる、未だ溶けきれぬ内、又降り積る、消えては降り、降つては消へる、其の内大雨の爲め、ぬぐうが如く一洗ひに晒らはれてしまう、山の雪は寒さで凍りついている、上から上からと降り重なる、容易に解ける暇がない、殊に日蔭に在る雪は、五月頃迄殘つている。
 四月の中旬頃になると、梅や櫻が、そろそろ山村の裏庭などに吹く。春霞で山の中腹あたりが、茫として、暖かい若芽の色が夢の樣に感じる、そろそろ峯の殘雪が、模樣的に解けてくる、若草が日增に延びてくると、殘雪も種々な形に變化する、長く帶を引いたのも、三日月形も、圓いのも、其の他色々な形に殘る、甲州の白峰山脈の農鳥山には、鳥の形に殘る、或は又信飛國境の爺が岳は、農男が、種を捲いている樣、其の他蝶形に殘つたり、何れも不思議である。
 淺間山附近の山には、さうゆう神秘的な現象はないが、又火山的な面白い特色もある、特に色彩に於て、發揮されている、若草の柔かい綠と、あわい春の殘雪と調和して、一種詩的な情緒をいだく事が在る。
 凡ての點に於て、冬の雪よりも、春の雪、殘る獲雪が、最も繪畫的で、それで水彩的であると思ふ、寫生の場合にも、冬は水が凍たり、筆が泌みたり(信州では氷る事を泌ると云ふ)其れが爲め、倒底不可能である、偶水にアルコールを混じて用うる場合もあるが、餘り功はない、塞國の冬の野外寫生に防寒の準備が出來ていれば、大丈夫である、若し雪中にて寫生せんとする人は、第一手袋(筆を持つに差支へのないもの)雪燒けの爲め、蘆足の指先を注意する事(之れは足袋の中になんばん、とうがらしを用う)。雪の深い時は、大抵わらの長靴を用ふ、少し深い山に這入る時は、カンジキを持つ、冬季殊に雪中の寫生に、困難であるが、叉痛快なる事も多くある、要するに準備が整ていれば、大丈夫成功すると思ふ。

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