去年の日記

六郎
『みづゑ』第八十四 P.20-21
明治45年2月3日

 凡そ過ぎ去つた年月の日記を繰り返して見る程思ひ出多いらのは少いが、別けて去年の今日此頃の日記位思ひ出の種となるものはあるまい、去年の今頃は自分に靜岡の講習會に出席し朝から晩まて吾が師大下先生の御側に居て樂しき日を暮らしたのであつた、先生に十二月の二十九日に東京を立たれて清水にて年を迎へられて元日に靜岡に來玉ひし由、宿は兩替町二丁目の魚伊とか云ふ御世辭にもあまり賞められない小さな家であつた、自分は二日の夜此宿に着いたのだ、着いた時の此家の感じはいゝ方じやなかつた、暗い燻つた樣な丁度魚伊と云ふ不景氣な名前に相當した程度の家であつた、こんな家で之に準じた食物を喰ぺては居た、が然し此家の二階に於ける一週間の生活は非常に面白かつた、水繪趣味に生活するさへ樂しきかてゝ加へて快活なる先生や其家族の方々と一共に居るのであるからして面白からざるを得ない譯なのだ、凡ての愉快と云ふことが食、佳、の不足の點を補ふて餘りがあつた。
  日記を開けて見るとこんな事が記してある「愈々今日より水彩畫講習會始まる、午前は物産陳列所の二階で大下先生畫を見せて講話さる、午后に淺間神社に寫生に行く、山の上だの何だの正男さんと一共に歩き廻つていよいよ描き出したのは二時、三暗半になつたら歸らうと正男さんと竹内さんが來る、輪廓だけで歸宿、夜は安田屋に講話と茶話會があるので行く」(一月三日晴暖)などとある、物産陳列場の二階で親しく説明された御樣子、未だに目の底に殘つて居る樣な氣がする、其當時説明のために使はれた御作品は今でも奥樣の所へ伺へば拜見が出來る、然し其當時の先生を今、何處へ行つたら見出すことが出來やうか。
  また一月四日の所には「午前は内堀とて舊城内にて寫生す、堀端の芝の上に三脚を据えて暖き日を浴びつゝ四ッ切をなぐる」などある、
  あの背の高い先生が堀端を下りたり上つたりして、批評して廻はらるゝ樣が思ひ出される、先生の批評に丁寧であつて且つ我々の樣な碌な素養もない者でも解る位に適切であつたことを自分は覺えて居る、此丁寧、且適切なる先生の批評は一つには先生が日本に水繪を普及されやうとする大抱負によりて生じ、又一つには先生の親切にして然も常識に富んで居られたと云ふ性質から發したものだと自分は考へて居る、然ももう二度と此批評を煩すことが出來ないことになつてしまつた。
  一月六日には三保へ寫生遠足をした、一盤二三人で行くのでも寫生遠足位に興のあるものはないのに此日は講習會員一同と云ふ多人數、先生は居られるし補助として赤城君まで來られる、遊び仲間の正男さんも行かれたのだから、之位面白い事はめつたに無い。輕便鐵道の中も面白かつたし船の中も愉快だつた、正男さんの所謂ハモロモの松を初めて見て、前に渺々たる大平洋を見て腰を下した氣持は實に何とも云へない位によかつた、西風がふき付けて吹き付けてとうとう船の蔭へ這入つて正男さんと一共に辨當を喰べた、こんな面白いことも講習會があつたからこそだ、自分はどうしても大下先生の講習會がなつかしい。
  會期僅かに一週間の譲習會であるから講話は常に夜であつた、夜食をすますと先生講話に五六丁離れた安田やに出かけられる、自分も御供しては拜聽する、が何にしろ講師としては先生きりだから一時間半位はどうしても可なりの聲で、話つゞけられる、隨分咽喉を使はれる譯だ、此講話を然も★心なる先生は一日も止められなかつた、會期の中頃より風を引かれて咳をなすつたりして可なり講話をなさるのが苦しい樣だつた、が先生は大抱負を行ふに付て、こんな事では敢て妨げられなかつた、先生の熱心なのにはつくづく自分は感心してしまつた、焉ぞ知らん此熱心なる點が惡魔の窺ふ所と遂ひになった。
  一體先生に自分が名前を覺えて頂いたことは、そんなに古い事じやない、此六年この方のことである、然し乍ら此六年と云ふ年月に、自分の趣味の涵養とか、養生とか云ふ點から考へて見ると、今迄自分の經來たつて期間の中て最も効果を被つた時代に相違ない、世にもよく趣味のない人間程不幸な者はないと云ふ、此尊い趣味を自分に抱て養ひ得たのは實に先生の御蔭なのだ、六年の年月短しと云ふ勿れだ、此間に養はれたる趣味は永久に存續する。
  唯に趣昧が養成された計りではなかつた、初めて御目にかゝつた折には碌に描けもしなかつた自分が、此頃でば兎にも角にも素人なみには描ける樣に技術も進歩した、此技術の進歩と云ふことは前にも話した先生の丁寧、且適切なる批評に負ふ所が頗る多いと云はざるを得ないのである、更に一歩をすゝめて考ふるに目にも見えず、自分にもよくは解らぬが先生が常に口にし玉へる人格の修養と云ふことも、出來たのであるかも知れない、否な出來たのであるに違ひない、然るに此自分の趣味、技術、人格、の養成者たる所の先生を、突然に奪ひ去られてしまつたのである、去年の日記を繰返して讀む毎に、自分は奪ひ去られたと去ふ事實の甚しく不幸なることが、痛切に感ぜられて足らない。
  顯し世を假寐の夢と思ひつゝも 忘れ難きは人にぞありける

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