全羅南道の朝鮮(一)

北山清太郎キタヤマセイタロウ(1888-1945)

北山紫巒
『みづゑ』第八十四
明治45年2月3日

 朝鮮の風景と申しますと、皆さんが禿山ばかりの多い、川や、湖沼や、深林の少ない荒凉な景色を想像されてゐるやうでございますが、朝鮮にも朝鮮の風景がありまして必ずしも、そんな殺風景に單調な處ばかりではありません。朝鮮の鐵道沿線に沿ふて旅した位いで、朝鮮通がつて居る人の話を信じて、朝鮮は繪にならぬ處、殺風景な處と定めて了ふのは、あまりに早計すぎませう、少なくとも朝鮮の景色を云々せうとするには、少しく未開の地方に迄、足を踏み入れ、代表的朝鮮の景色を味ふて、評して頂きたひと思ひます。
 斯う申しましたとて、私は別に朝鮮に生れた、混血兒でもなければ、無論、鮮朝から嫁を迎へたと云ふやうな關係もありませんから我田引水的に、大袈裟な御話をする、義務も何もないのであります、只だ吾、帝國の新領土として且つ一二年の間、同地に遊むで、其土地の風光、風土に親しむだ關係から、私は同地を愛する情より、此地の風光を皆樣に御紹介したい、さうして彩筆を握つて旅する人の多少の便にも供したいと思ひまして、實は未熟な筆を弄して御紹介申上げる次第であります。
 期鮮と一口に申しましても御承知の通り殆ど吾全土に等しい處でありますから、これを一々學げて御話すると言ふことは一朝一夕には盡しがたいのみならず、聞いたからとて矢鱈、長話に失してあまり畫の方に有益なことでもありませんから、それよりも暑中休暇の一ヶ月位ひを利用して、面白く且つ經濟的に寫生旅行を企て得ると云ふことの御參考になる材料を撰むで、申上げた方が却て興味が深からうかと思はれましたから私は此點より、主として氣候、其他の關係の、あまり本邦と變りのない、さうして風光明媚なる全羅南道の朝鮮を旅日記として御話することにいたしました。
 私の釜山へ渡つたのは五月の初め頃でした。多少恐怖の念を以て目して居りました對島海峡も至極平穩で、殆ど疊の上を行く樣でした。
 故國の山々がボーと霞むで見えなくなると、左の方に當つて對島が淡く繪の樣に浮きだしました、それも何時の間にか黑い水平線上に消え去つて了ふ頃、何處から來たのか、すれ違ひさまに遙か彼方を吾國の軍艦が行き過ぎました。廣い具だ蒼々として、限りのない樣な海の上で吾國の軍艦の雄々しい堂々とした姿を見ますと、何となく心強く覺えます。これが今、僅かばかり前に故國を離れたばかりの私共でさえ、こんなに心強く感じるのでありますから、遠く異國の空に在つて故國の便りを聞いて樂しむで居る人々が故國の軍艦を迎へた時は、どんなでせうかと思はれました。
 甲板では、今の船は何艦でせうか、海軍は勇ましいものだ、と云ふ噂で持切って居ましたが、少し風が荒くなりまして、波が高くなつて來さうなので、私は急いで船室へ引込むで眠られぬ目を無理に冥つて、海の荒れて起る恐ろしい遭難の光景が、ありありと腦に浮むでならないのを沈めやうと致しましたが、船の左右に傾ひて、時々窓に白い波の泡がサーサーと音をたてゝは見えるので、だうしても、あとからあとからと新しく色々な、ことが聯想されまして、神經が益々興奮して、終にはとりとめもないことばかりに想ひ耽つてゐる中に、いつか眠りましたものと見えて、眠の醒めた頃は、もう室内には電燈が眩ゆい程に輝いて、釜山が見えると云つて、他の客に一人も船室に殘つてゐない頃でした。
  私も外套を被つて、麻裏をつゝかけ甲板へ出て見ました。
 船は靜かな湖上を航く樣に、眞つ蒼な水の上をサーと波の碎ける音を立てゝ辷る樣に走つて居ました。
 遙か船の行く手に當つて數十の赤や青の灯が美くしく、黑い山の麓にキラキラと輝ひて、それが水に映つて見える、港の夜の光景は實に立派なものだと思ひました。
 船は大きな山と山との間を進むで、それから次第に速力が鈍くなって、直ぐそこに見えてゐる港だのに、ぢれつたい程、幾度も、後戻りをしたり、進むだりして、其毎にボーと海の上に響き渡るやうな汽笛を鳴らせて、漸くに明るい棧橋へ着きました。棧橋には色々な屋號や定絞を印した提灯を提げた宿引が客を出迎へに來て居ました。一時に船から吐き出された客と、手荷物で棧橋は人の山、それが多方去つて了つた頃に、私の手荷物が知れました。
 私は宿屋の番頭に案内されて、程遠からぬ可なり賑はしい街の明るい宿屋に上りました。
 暫らくいたしますと、小女がお風呂へと云つて參りましたから、案内されて行きました。風呂場の樣子は少しも變りませんでしたが、御湯に這入らうとして驚きました、それは湯槽が大きな水瓶で出來て居まして二ツ並むで居ます、底の方に板を入れて、馬鹿に深いことでした。そして四方に肌が觸れると熱いだらうかと思ひましたが、別に何ともありません、結句、心持がよいやうに思ぼれました。お湯から出まして體を洗はふと思つて居ります處へ、變な口調で『お客さん私|あなたの脊|洗つて上げます』と云つて、持つて居た手拭を取り上げて、それはきれいに洗つて呉れました。頭髪を長く伸し頭の頂で丸めて、白い變手古な着衣を着けて、其上から印絆天を重ねた、見るから恐ろしいやうな、大男でありました。私は部屋へ戻りますと、モー夕食の膳が出てゐて中々御料理がよく出來てゐました、私は朝鮮でこんな御馳走にありつかうとは思つて居ませんでした。食事をしつゝ、女中に先きの風呂揚の男を尋ねましたら、それは朝鮮人で、風呂番に雇はれてゐる男だと申しました。
 旅行に出る前には朝鮮の事情や必要なことは書物でも見ましたし、永らく居つたと云ふ人からも聞いてゐましたから釜山はどんな所、朝鮮人はどんな樣、位ひに想像が出來て居ましたが、さていよいよ目の當り實地に接して見ると、聞ひたのとは大變な相違で、豫想して居たことは總て外れました。
 釜山の市街、それはまた素的に開けたもので、殆ど内地と違はない、寧ろよく街も調つて居ますし港としては設備も可なり充實してゐるやうに見受けられました。
 停車場は街の片角、海岸に近く在つて高層な赤い煉瓦と石とで最薪式に積上げた立派なものであります、まだそれ丈けでなく廣軌式の大きな客車は氣持のよいものでした、こゝから京城、仁川、李城、義州、方面へ絶えず旅客を運むで居る、言はゞ釜山に將來に如何なるかは知らないが先ず朝鮮の咽喉と言つた感じがあります。兎に角、釜山を書き立てるのは野暮です、日本の一寸した市街と思つて頂けば大した間違はありますまい。
 釜山の街を歩いたゞけでに何うしても朝鮮へ來てゐると言ふ氣分にはなれません。只だ白衣の韓人を至る處に見受けるのと、絶影島の禿山の山腹には大小の奇岩が起伏して多小趣を異にしているのと、四圍の響きが僅かに朝鮮を思はしめるに過ぎませんでした。
 私の目的に寫生をしつゝ朝鮮を歩くと云ふのが主で、よい處があつたら永住しやうとも思つてゐました。釜山はこんな風で寫生する樣な場所と云つて別にありません、それは尋ねて描けば幾らでもあつたでせうが、然し態々朝鮮くんだりまで出征した私の眼を滿足させるには少し釜山はもの足りませんでした。でなかつたならば釜山に五六日も滯在して畫嚢を賑かしそーして京城方面から仁川へ出やうかと計畫して居つたのですが、この調子では鐵道に沿ふた處は開けて居るから駄目だと見越しましたから、急に計畫を一變して舟で三干浦と云ふ處へ上陸し、それから晋州を経て河東から全羅南道に入り、膽津江に沿ふて上り、木浦に出で、それから先きは金の都合で仁川、京城と廻つて來やうと定めました。さて斯う定まると、物貨の高い釜山には永居は無用と云ふので、翌る日の、午前十一時出帆の汽舩が鳥渡、私に都合がよいのて、それで山千里(三千浦)と云ふ處まで行くことに定めまして、其時刻を計つて宿を立ちました。船に房州や、伊豆あたりを航つて居るやうな小さなものでありましたが、船内は思ったほどに不潔ではありませんでした、邦入の船員が主で、其下に働く韓人が三四人もゐるやうですが、何れも日本語がよく話せるので中々一寸朝鮮人とは思はれません位です。客も邦人が多く韓人の商人らしいのが小供と雇人を伴れて、乗り合せて居たゞけでした。
 船はボーボーと汽笛を合圖に漸く棧橋を離れました。
 靜かに晴れやかな釜山の海岸に沿ふて、絶影島の大きな裾野を左りに近く眺め、荷舟や漁舟の織るがごとき中を、ゆるやかな速力で蒼い波を切って船は辷るやうに進むのでありました。
 他の船客は幾度も往來するものと見えまして皆な船室で色々話し合つてゐましたが、私は始めての旅でもあるし、眼に、耳に觸れるあらゆる事物が珍らしいので、うすら寒い甲板の上を去るに忍びませんでした。
 このあたりの景色は鳥渡、瀨戸内海と云つたやうな具合で、船の進むにつれて變る變る現れては去る島々の風光を、甲板に日向ボヅコして眺めてゐますと、さすがに氣も伸んびりとするのを覺えました。そして近い陸上の變つて行く景色や白衣の朝鮮人の呑氣らしい生活の樣子を見てゐますと、いつそ、それが慕はしいやうな氣もいたましました。
 船は正午過ぎ舊馬山と云ふ港へ着きました。
 此處は可なり大きい朝鮮の町で、小さな藁葺の家屋が密集してゐる樣に實に奇觀でありました、ここから大分客が乗り合ひました、それは日本の女でありました。
 若い女が八九人と、柄の惡さうな男と、でつぷりと肥えた男勝りの樣な年增のお神樣とでありました。若い女||それがまたてんでに柳行李だとか三味線の包だとかを抱へてゐました||何をする女だらう?私には解りかねました。
 その一體が、ガヤガヤと繰り込むで來たのは、何のことはない田舎廻りの女役者が、村芝居でも始めさうな景氣で、いやによく、はしやぐ、お白粉をこつてりとつけた女ばかりでした。
 『えゝもー馬山も近頃は思はしい鳥もありませんでなー姉か興 陽に居つたが、急に寳城へ移ると言ふので、その後釜に若い 娘を蓮れて來たら面白からうと、知らして來たものですから、 えー急に、あなた行く事に定めましたやうなことですのよ、も ーあなた、何處へ行っても前の樣な面白ことは、てんで見ら れやしませんが娘子を遊ばしても居られませんからね・・・』と彼の年增が知り合ひでゞもあるのか釜山から乘つた客に話して居ました。これが所謂海外に出稼して居る娘乎軍だなと悟られました。日本の婦人は實に偉いやうな、惨めなやうな氣がいたしまして、何とも言ひ知れぬ感しがしました。
 それから約三十分も致しまして船はこゝを出帆しました。さうして程なくまた停まりました。
 此處が新馬山浦と云つて新らしく開けた港たさうで仲々立派な建物が山の中腹から海岸へ掛けてミツシリと建て結むで日本風の家屋が、白や、靑や、赤に塗つた西洋風の家屋と混つて、大きな市街をなして居ます、そうして浮棧橋があつて船はそれに橫着となります。
 人口から申しますと舊馬山の方は多いさうですが、市街の樣子は全で此較になりません、然し橫濵と神奈川と云つた風な處なのですから、ゆくゆくは一つ市街に續くでせうかとも思はれました。
 大ぶん朝鮮通らしい一人の商人體の人が得意がつて説明して呉れました、それはかうでした。
 此港は鎭海灣と云ひまして、あの左の方の山の裾に見える煉瓦造りの長い建物、あれが要塞砲兵の兵舎で、凡そ一筒大隊ばかり日本の兵隊さんが居ます、それからづつと右手の山の、山腹にある、白い建物が民團役所で、その隣りに石段の眞つ直に見えるのが馬山浦の神社、海岸に近く町外れにある建物は馬山浦停車揚で、これに乘つて三浪津と云ふ所で一度乘り換へると釜山へでも、京城へでも行けます、と、それは叮嚀に敎へて呉れました。
 こゝでも大ぶん荷を載むだり降したりするのに手間を取って、客も三四人は殖えました。
 程なく鐘の響きと共にガラガラと錨を巻く音がして、ボーボーと白ひ蒸汽を吐ひて船はクルリと方向を轉じ、馬山浦を後ろに、靜々と離れて行きます。『もー是から先きは段々と淋しくなるばかりだ』と誰かゞ獨言のやうな口調で言ひました、
 船は華やかな初夏の穩やかな、そしてグリーンを溶ひた樣な海の上を、後午の強い光を眞正面から浴びて、心持よく走つてゐます。
 私に馬山浦の方に心を惹かれて、名殘惜しさうに立つてゐますと、黑い煙が無遠慮に低く馬山浦の方に流れて、その煙の淡く盡きるあたりに、港の白い建物が少さく、灰色になつて見えましたが、右、左から島や、山が迫つて來て、それを廻つた頃は、もう何にも見えませんでした。
 右手の方に聳えてゐる山に、陸續きの連山で、淡ひカドミウム色の句配の緩い廣い裾野を見せて、その、處々に小さな森や漁村のやうなものが幾つとなく眺められます。
 左の方に遠く見えるコバルト色の島山は、名高ひ巨濟鳥で、一寸見たゞけでは陸續きのやうに見られます。西日を受けた海は白く輝ひて、時折石を積むだ朝鮮の船が大きな筵の帆を揚げて風に追れるやうに、すれ違いさまに行き過ぎます、その小さやかな舟には白衣の舟頭が、節面白く舟歌を唄つて呑氣さうに、私等の船を見かけて、手を擧げたり、布を振つたりして、愛嬌を殘して行きます。何處へ行きましても人情には、あまり變りのないことが知られました。
 紅い夕日は餘程西に傾ひて、風が冷たくなりました、巨濟島は一際美くしいコバルト色に浮き出して、例の筵の帆を揚げた舟が島をバツクにして五ツ六ッ、夕陽を受けて靜かな海に、奇麗な影を描ひて居ます、繪です、實に見ごとな畫題でした。
 島から島に歸つて行く木葉の樣な舟は一層多くなりました頃、船の甲板は俄に騒しくなつて、程なく黑い山に包まれた樣な、小さい港へ着きました。
 港の入口には工場の樣な建物があつて、それがまだ木の香りの取れない程、新しい日本風なので、此處も日本人の多い港と頷かれました。
 白い蒸汽が一際目に立つてポーポー、と一しきり高く鳴り渡つて、船に蒼々とした深さうな海の上に、波紋を描いて錨の音勇く、泡立つ波の中へ靜かに停まりました。
  西の空にはローズ色が流れ、ボンヤリとした黒い山に夕靄が低く垂れこめて、夕食炊く煙は遠近にコバルト色に煙つて居る、山の中腹には瓦屋根の長い廊下を廻した城の樣な建物がホンノリと見えて、こゝばかりは珍らしく雜木が山に茂てゐました。街は山の麓から海岸にかけて可なり廣い、そして日本の家屋は、海端近くに列んで、西洋造りの家も一二軒は混つて居る、街の樣子から繁華な樣に見受けられました。五六の提灯を點けた艀が荷物と、客とを載せて、灯の點された、美しい街へ運むで去つた頃は、もう日もドツプリと暮れて、空には星が瞬きはじめました。此港は統營と云つて名高い處で、昔は朝鮮の水軍が屯した所ださうです、彼の豊臣公が征韓の役に、此附近へ上陸せうとした味方の水軍の一部は戰ひに敗れて、多くは囚はれ、彼の山腹の城で斬に處せられたと言ひ傳へてあるさうですが、そんな言ひ傅へはあまり心持ちのよいことではありません。

 暗い甲板には靑い灯がついて四方をボンヤリと照して居る、風は肌を刺す樣に冷たく甲板の上をピユーと唸つて掠めて行きますので、私は船室に戻りました。
 程なく例の錨を巻くいやな音が響いてゴトゴトと船が微動し始めますと、船員が飯櫃を運むで來て。皆樣御飯を召上つてください、と紋切形に云つて廻つてゐました。
 ウス暗い舊式のランプに照された一種の臭氣を放つサロン。
 汚ない毛布に纒はつて、だらしなく寢そべつてゐた例の女連れが、御飯と云ふ聲に稱び醒されてゾロゾロと這ひ出しました。そして暖さうに湯氣のたつてゐるお汁を吸つてムシヤムシャとお飯を詰め込む。中には袂からお菓子を出して屈託さうな顏をして喰べて居るのもありました。
 暫くすると船員が平たな箱にお菓子を入れて賣りに來ますと、それを例の女が取り巻いて、無遠慮に大口を開いて投り込む、實に其光景と云つたら凄いものでした。
 靑白い煤けた顏||一樣に生氣の失せた髪の毛||色の褪せた、絲の抜けた着衣||これで朝鮮を股にかけて稼がうと云ふ、思ふただけでゾツとする、まだそれだけで物足らぬと見えて口三味線に柏子を取つて。聽きなれぬサノサ節を唄つて騒ぐ樣は、宛然精神病院の婦人室でも訪れた樣な感じがゐたしました。彼等は恐ろしい魔の樣な生涯に歩一歩として深く入りつゝあるのを知つてゐるのでせうか、私等の同胞にもこんな悲慘なものゝあることを知つては實に耻かしい次第でありませんか、私は彼等の憐れむべき境遇に深く同情いたします、そして朝鮮至る處の地にこんな醜業を營むで居る者が渡鮮邦人の約百分の五を占めると云ふことを聞くに至つては、痛切に婦人の敎育と云ふことに心を動かされざるを得ませんでした、然しこんな事に感情を動かされる私は、まだ考へがよほど幼稚な故かも知れませんでした。
 窓の外は眞つ暗で時々風に煽られてか、白い波がサーサーと丸窓の硝子を打つて居る音と機關室の方から洩れるエンヂンの響とは、單調な夜を景氣づけて居るやうにも聞えました。一しきり賑はしかつた船室は再た元の靜けさに反つて、淋しさうな洋燈の、黄つほい光はゴロゴロと寢轉むで居る、客の上を冷たさうに照して居ます、私は其の片角に少さくなつて心細いやうな灯の下で日記帖やスケツチブツクに筆を走らして眠られぬ眼と腦とを、僅かに慰めてゐました。折から入口の戸を細目に開けて。『三千浦へ上る御客樣は御支度をねがひます』と布令て参りました。待ち遠しかつたやうな、何だか億劫なやうな、變な氣が激しました。
 風に依然として強く吹いてゐました。今し、東の空に現れたのでせう、眞ん圓い月は冴えきつた空に皎々と輝いて、狂ひに狂つてゐる恐ろしい波は船側を咬むで、其毎ぴに船は左右にグラグラと動きます。
 目の前に迫った港、それは||星のキラキラと瞬く凄い空||黒い山||カッキリと白い火の消えた港の街||銀色に狂ふ磯波||これだけ私の腦に印象された丈けで。寒い寒い艀の中では外套の襟に首を埋めたッきり私は動けませんでした。
 波の荒ひ海から、岩の起伏した淋しい丘へ追はれる樣にして揚げられました。そこには、船からは見えませんでしたが宿屋の男と、出迎へらしい女が三四人、寒さうな顏を列べて立つて居ました。
 釜山から貰つて來た宿屋の案内状を出迎の番頭に渡して、荷物を持つて呉れた番頭の、黑い大きな月影を踏んで、私は默って歩きました。道の兩側に列んだ家、それは多かた日本人の家らしかつたですが、朝鮮じみてゐました、軒の街燈に一ッ殘らず消えて、白い路ばかりが遠く續いて見えました。
 宿屋は日本風で、汽船宿の隣りでした、中央に車寄の付いた式臺の狭い玄關があつて、左が臺所、右に二階建の座敷が一棟ついて居ました。月明りに裏の小高い崖に白く、光つて見えました。
 船は、風の故で二時間も遅れて着いたさうです。此港には日本人が二百人程ゐまして、守備隊はなく、憲兵分隊が一ッあるッきりだと聽きました。
 湯から出て、食事を濟せて、九ッ切を二枚水張して、休みましたが。風の雨戸にブツヽかつて、外れて飛びさうなので、氣に掛つて、をちをちと眠れませんでした。
 時計は一時を告げました。

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