青森と洋畫
森ひせつ生
『みづゑ』第八十四
明治45年2月3日
我が靑森地方の人々も、近來洋畫の價値をやゝ解し得て、油繪の、水彩畫のと、口にするような程迄になつて來た。
此れは僕等の大いに、欣喜に堪へない處である。然し、飜つて、十年の前を考へて見るに、洋畫は極めて幼稚な域にあつて、油繪と水彩畫の區別に勿論日本畫と、洋畫の區別をすら、解し得なかつた人々が多かつたのである。
洋畫と云ふと、すぐ反物に付いてる石版刷のペーパやいろいろな、鑵詰等の表を、包んである、繪紙や、墨で、あやふやな影を付けた、名所圖等を聯想したものゝ、やうに覺えて居る。それが彼の、日露戰爭前後よりして、雜誌に、又は繪ハカキに、洋畫が多く見えて來たので、洋畫が從來の日本畫に比べて、人物なり景色なりに於て、實際に見える、と云ふ點に趣味を持つようになつたものらしく、急に其れ以來、一般の人々の頭が、洋畫に對して長足の進歩准示して來たのである。
今では大凡、中流以上の家庭の奧座敷や、又は客間に、店頭に、水彩畫の肉筆の一枚や、油繪の印刷畫の一枚位は、見受けない家は少いやうな程迄になつて居るのである。
斯樣に進歩を示しては居るものゝ未だ全く、一般の人々に普及されてあるとに云ひ難く、前に云ふたような、際々に出來る彼の、際物繪や金泊入りの所謂、金ピカの江戸名所圖等の、數の劣等なのを見て、洋畫は貫目が無くて上品でなく、下品で俗臭いものである」等と、誤解して居る人も又、少くないのである。彼の市中の商家の、家根の上にある、畫工が、ほとんど畫と云ふものを無視して、なぐりがきする看板を見て、油繪の上々なものだと思ふてる人も、あるのである。
其れに靑森地方の、風流な、物持ちの多くは、古い人々であるからして「洋畫等は、一西洋人が、かくもので西洋人の好むべきもので、我々日本人は、どこ迄も日本人のかいた日本畫を愛すべきものだ」等と云ふたような口調で、途方もない處で、國家的觀念の、外に狭い意地を立てゝ、古い黄色くなつた掛軸に力こぷを入れ「やれ雪舟」の「やれ探幽」の「やれ應擧」のと騒ぎ廻つて・・・・時たま、僞物を買ひ込むような向きが多いのであるから誠に、殘念な次第である。洋畫の長所を眞に、一認めらるゝ時は未だ未だであるのである。
兎も角、現在では未だ未だ比ぶ可くもない日本畫の隆盛時代と云ひ得るのである。
然し今の新らしい、考へを持つてる、若い人々の多くは、たしかに日本畫よりも、洋畫に趣味を解して居るのが多いのだから此の若い人々の時代となる、十數年の後には、必ず洋畫の時代とは、なることだろうと信じて、僕等、洋畫の研究者は、心竊に安んじて勉勵して居るのである。
要するに洋畫の概して日益、盛んになり行きつゝあるのは事實であるので、僕等も勵みがいのある事だと喜んで居るような譯である。專門家たらん爲にであろうが、單に娯樂の爲であろうが、兎も角僕等と趣味を同じふしてパレツトを握つて研究しつゝある人も、又少なくないのであつて、夫れ等の人々は是ぞと思ふ先生の、ないものだから皆、講義録や、諸大家の著された、手引本の類と、美しい自然とによつて研究しつゝあるのである。
それで、これから、洋畫を學んで見ようと思ふ人に、淺果かではあるが、僕の少しばかり經驗から得た、事を申して見るに。一體、洋畫の繪具や、道具や、何かにつけて至極、不便な地方の、研究者は實際一割、損な位置にあるのであつて、我が靑森地方の研究者も、其の御多分に洩れず、不便を感ずる事があり勝で、別けて油繪の研究者は此れが甚しいので困つて居る。木炭の果てから、カンブアスに至る迄、皆一寸に買へないのであつて、繪具の一色、油の一と瓶も無くすれば、皆東京迄注文してやらなければらならないので・・・・それがどうしても、早くて十日位に要するのだから、誠に困る・・・・其れで勢ひ油繪の研究も、皆怠り勝になりやすいのである。其の點に行くと、水彩畫の研究は餘程樂であつて、筆紙から、色まで何一つ、土地で買へないものはないのであるから、僕等も自然、油繪よりも水彩畫に親しみ勝になるのである。
夫れ故に、やはり是から研究しやうと思ふ人は、水彩畫の研究が良いと思ふのである。
前に言ふたような不便もあるし、それに油繪の技術が、水彩畫のそれに比らべると始めは、容易で無い點が多くあるのであるから僕は、どうしても水彩の研究を御勸めするのである。
それから御勸めついでに、御勤めしたいのは、作品の批評を乞ふ可く適當な、良師の無い靑森地万の研究者は、よろしく春鳥會の會友となられん事を望むのである、其の故は、各自の作品の批評がして戴けるからなのである、其の批評をして下さる先生は、水彩畫會の有名な、先生方であるのだから、たとへ通信敎授であつても、此れがどんなに有益であるか、わからないのである。
斯樣にして、其の指示された、長所短所に留意して行くようにしたならば、地方にあるからとて、差して禾自由を感ぜずに進歩して行く事は、あまりに難くは、なかろうと思ふのてある。其れから、靑森の繪畫の團隊としては、一昨年秋僕等の相謀つて起した「北洋畫會」と云ふ十數名の會員から成つて居る、會があるが目下の處、有名無實の觀なきにしもあらずではあるが、三回迄も展覽會を公開して盛況を極めた程のものであるから、又今に時機さへあれば再び盛返して行きたい積りであるから、これから研究しやうとなさる人は、此の團體の一人となられて御互に研究して行くように、してもらいたいのである、會員の中には山岳を跋渉して偉大な幽靜な自然を探りつゝ熱心な研究を積んで居る、今白鴎君や、つらい御役所勸めの餘暇にスケツチ箱を持ち出して、市中や近村を走せ廻つて居る、藤野草明君や、此の外在京中で原町の研究所に通ふて居る、研究に忠實な三浦君や、岡田三郎助先生の膝下に其の敎へを受けて居る松岡君や、大澤君、美術學校在學中の柿崎清助氏(會員ではないが)等は皆、洋畫に一生を捧げて、未來の大家を夢見て力んで居る人ばかりなのである、兎に角、こんな小さい靑森の市から、こんなに多くの洋畫家志望の者を出したのは、大に慶すべき事てあらうと思ふのである。
備前の岡山からは、一流の大家が三人(松岡、滿谷、鹿子木)も出て、其外洋畫家が澤山出て居るので、斯道の人に知られて居る處であるが、今に我が靑森も、注目され可き地だらふと、今から僕は期待して居るのである、然し此れも要するに僕等の勉勵の如何によるのであるからして、其の積りで奮勵しなけれぱならないのである。
又女にも、此れに筆を染めて居るのを、しばしば見受けるのであつて、先頃東京に行かれた女流洋畫家落合らん子女史は、あまり郊外の寫生はせなかつたが、油繪と、擦筆畫に妙技を示して、靑森には先生の一人として知られた人だ。
僕も其の敎へを受けたもの、てある。
女史と、女吏の敎へを蒙つた渡邊まさ子孃との二人が、靑森で始めての野外寫生をした人であつて、中にも年若な孃の勇氣と、熱心とには少なからず喜こばしく思はれたのである。
斯樣に、娯欒の爲とは言へ、女に迄もこんな、熱心に研究するものゝ出て來た程、兎も角洋畫の盛んになつたのは、他に理由の無いではないが、與つて最も力あるのは、恩師大和田篤治先生であると云ふ事は、何人も此れを拒まぬだろうと思ふのである、先生は一昨年の春、故郷の四國に轉任なされたが、靑森には中學校の圖書の敎授として、數年間居られて大に僕等、後輩を導いて呉れた人で、我が黨で先生の敎へを受けないものはないのである、のみならず靑森地方全般にも、いくら洋畫の趣味を普及したか俄に推測しがたいのである、そして先生は有名な申村不折、鹿子木、滿谷、石川寅次各先生等と同年頃、不動舎に小山先生の敎へを受けた人である。
先生の、最も妙を得たものは油繪の、靜物であつたように覺えて居るのである。
僕等は、靑森の洋畫の發展しで行くに連れて益々、先生を忘却する事が出來ないと思ふのである、未だ筆を止めたくはないが、貴重な本欄を、此んなくだらない事で、永たらしく無駄にするのも失禮の至りであれば、一と先づこれで筆を止めて置く。
終りに、靑森地方の研究者の、大々的奮鬪を望んで止まないのである。