寝前小話

健堂生
『みづゑ』第八十四
明治45年2月3日

 大下先生の『水彩寫生旅行』が出版された、僕想ふに此の冊子こそ出刊界にレードを破った物であると。
 二十有餘の紀行文と數十の絵は實際見て居て暑熱の夏をも忘れしむ文も繪も雜誌『みづゑ』で見たものも多いが、然し何回見てもあきぬ書籍である。
  僕は此の本を友として初秋旅立つ考へである、秋が來た、秋だ。秋と旅は密接なるものであると思ふ、僕は四季中秋が一番好きだ、木が紅葉するからでも氣が晴々するからでもない。僕は唯秋と云となんとなく戀しい、僕の歌は先天的に秋に醉ふて居るかも知らない、何んとしても秋は好い。
  僕は想ふに、天才は決して淫靡放逸なる精神に宿る能はざる也だから、我々の如き一の物好きに依つて美術を學ばんとする者でも、心に常に神聖に保たれたいと思ふ、精神の腐った者は如何なる技術があり、如何なる好材料を持つても繪は好く出來ないと思ふ。二十錢の繪具でも精々たる心の者は立派な繪を作る、我々は唯空想にばかり走らずに一歩々々進まねばなるまいと思ふ。
  僕等の樣な者は、日曜以外は日々の業務に忙しいので書物を見る事も繪を書く事も出來ない、で僕は日曜に繪を習ひ本を讀む樣にして居る、『みづゑ』原稿は氣の向いた晩寢る前に書く樣にして居る。
  僕は自然の子として、自然にはなれたくないのである。人間と云ふものは、自然の美、自然の慰安を欠いたなら自己の生活が一歩一歩墮落の底に行く事を諸君にも自覺して欲しい、一事の欲に迷はされると大切の藝術は滅亡して了ふと思ふ。

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