素人に

齋藤與里
『みづゑ』第九十
大正元年8月3日

 素人の人は自分で定めてゐる繪と、其の體裁が少しでも異つてゐる繪を見ると、此んな繪は駄目だ、物になつてゐない、と云はないまでも『解らない』と云ひます。
 解らないものを解らないと只云ふのなら正直で好いが、それを云ふ時は常に必ず其の繪を蔑む樣な心が混つてゐるのを推察して、其の人の爲に悲しむ事があります。彼等が發見して此れが『眞の繪』だと云ふのはどんな繪なのでせう。
 考へて見るのに、繪畫に就いて一寸の研究もない素人と同樣な心で描いた繪でなければ、眞の繪として承知する氣使はないと思ひます。而して其の繪を一の雛形でもあるかの樣に心の内に置いて、繪を見る毎に其の心に照り合せて見て一寸でも異つた點があると、もう畫道を脱してゐるものと做し、吾々には解らないと云ふ謙遜の樣な皮肉の樣な詞をあびせかけて濟してゐるに違ひない。
 さう云ふ態度で繪を見る人は、繪と云ふものゝ眞價を良解する事なしに活きて行かなければならないのです。活きて行く上に於ては繪を解する腦力が缺けてゐても一回差支ないのですけれ共、只人生から藝術を引き去つた人間として生を續けて行く事になります。否それ丈でなくも、もつと色々の物を引き去つて肉體と獣慾ばかりにしても、其れ相當に活きて行かれるのですから、價値の高いものほどは其の道に素人の人に對しては實利を離れた詰らないものゝ樣に思はれて終ふのは自然の數だと思ひます。
 處が人間と云ふものは、どんな下等なものになりましても、現在の自分以上の高い處に理想を置いて、常に其れに近付いて、其の物と混和しては、自分と云ふものを高めて行かふと云ふ本能的慾望が生の進行を示してゐるのですから、迚も解らない、出來ない事と承知してゐながらも、其の間に於ては慾望と斷念の戰を見るので、絶對の斷念は死を意味するものです。
 然し其の理想とする處の高い物は、下等の人間と上等の人間とに隨つて甚だしい差を見なければなりません。即ち劣等な人間の見てゐる高い物と、優等の人の見てる高い物で、其の慾望を滿す爲には、前者は其れに向つて進む時は決して自個を顧て、自個を明かにしてはならない場合の方が多い樣ですけれ共、後者は必ず自個を顧て、自個の力量を明瞭にしなければなりません。而して前者は世俗的ー物質的利己の爲に動いてゐるのですけれ共、後者は心的活力を強める事になるので、繪を見る人は此の方になるのです。
 處が素人は繪を見る時には何時も自分の至らぬ點には心を付けないで、自分の眼力に的合する繪でなければ、二度と見る樣な事はないのですから、新しい物を發見する事も出來なければ、隨つて向上の時がありません。
 畫家は常に現在の自個以上に、遙に高いものゝある事を認識して、絶えず何れの方面にか向つて登りつゝ停止する事を知らないので、若し現在の自個以上に、高く、大きく、深く、廣いものを認識する能の全く消滅した時、畫家の足はパッタリと止つて其の儘死なゝければならないのです。それですから、例令どんな物を描いてゐても、藝術的温血が體を廻つてゐる間は、畫家の生命は確なものですけれ共、其の血が冷却して終ヘば畫家は畫家としての生命は絶えた譯になるのです。
 それから思案しても、素人が早合點に定めた繪に引き比べて、凡ての繪に見切りを付けるのは、繪に對する心を高めて行く上に非常な損をするものだと思ひます。(七月十日大磯にて)

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