劇の背景[二]
山崎紫紅ヤマザキシコウ(1875-1939)
山崎紫紅
『みづゑ』第九十 P.5
大正元年8月3日
『破戒曾我』は、市川左團次氏にあてゝ書下した私の戯曲である。
背景の美しいのを以て、その當時都門に劇稱されてゐた。明治座は、私の豫期以上の、めざましいものを、舞臺に顯はした。筆者は同じく『歌舞伎物語』の畫家であつた。
美はしかつた、あまりに美はしかつた。役者は畫の中に沒入してしまつた。而して脚本までも‥‥
坪内先生は、此次に同座に演ぜられた拙作の『底倉湯』を評せられる時に、引例として、箱根の道具のあまりに華麗なりし爲めに、優人を沒却して、しまつたと云はれた。私はいまに、拙作を飾るために、費用を惜まなかつれ明治座の厚意を嬉しく思つてゐる、一番目二番目合せて、十數場の大道具の製作の費用は、箱根一場のそれに比して、遙かに下つてゐれとかいふ。しかし、この背景が、私の作の舞臺上の効果を、どれほど助けたかは、今に於て疑問の一である。
此次に演じた『底倉湯』は、長谷川の手でこしらへた。費用もずつと下つてゐるが、この淡い色の調子は、背景の前に、役者を活かして見せた。
丸山晩霞氏が、本郷座の高田河合劇の背景を書かれたことがあつたが、あの時も、やはり色が強過ぎて、役者を蹴つてしまつた。
私はこの經驗で、背景の色の強いのは惡いといふ斷案を得た。したが絶體的に、強い色は惡いと云はれない、登場する優人の衣裳、また脚本の種類によつて、強い色彩を使つても差支へのない場合はあると思ふ。前者は衣裳に單色を使用することの多い洋劇、またはそういふ風に示定してゐるもの、後者はオペラの類を演ずるとき。
これからの私の芝居には、背景について、あまり飛離れた試みもなかつた。明治座で洋畫家が試みた圏内から、脱出するやうなことはなかつた。ひとり私の芝居のみでない、世間の悉くの芝居に於て‥‥
その後私は高田實氏の爲めに『孔明』を書いた。この時に、私は暗い背景を注文した、極めてあらい書き方、そして極めて明るい色に貧しい書き方、それから出る役者の衣裳については、出來得るだけ單色を擇ませた。衣裳と背景との調和、私の考ヘの一端はこの時に、舞臺に顯はれた。たとヘその脚本は等級の下つたものにもせい、その衣裳は古實に縛られない北齋筆の『漢楚軍談』的のものにもせよ、私はあの小さな試みに、成功したと今に思つてゐる。
昨年になつて、帝國劇場の開場式に『頼朝』を演じたときに、序幕に大きな楠を使つたが、やゝ世人の目を引いたが、しかしさう大した事でもなつかた。あの後になつても、あの設備の整つてゐる芝居で、あれ以上の事もない、背景の進歩といふ事はむつかしいものであると見える。
私のこの小さな話も、題が大きくなつたので、書くのに肩が張る。この話を書く動機は、大下藤次郎氏が私に描いて下すつた『明智光秀』の背景畫の説明を書けと云はれたのに起因する。
本號に挿んだ下畫は、故人が『史劇十二曲』中の『明智光秀』の夜の幕の用にと、書かれたものである。
大下氏も、劇の背景のことには、興味を持つてゐられた、私は氏の畫室に於て、色々な事を話した記憶を、幻のやうに想起する。
淡い色彩といふ事は、故人と私とが一致した背景についての、第一條件であつた、私は私の苦い經驗から。故人は故人の學ばれれ畫の力から。
故人は折があつたら、背景を書いて見たい、研究所の生徒を頼んで、そして研究にやつて見たい、畫具の代さへ拂ふのなら、辨當を持つてでもいゝから出かけるなんて云つてゐた。『明智』は都合によると、上場するかも知れないといふ私の話の下から、故人はあの畫を書いてくれた、事がもし運んだなら、故人は本物をも書いて下すつたかも知れない、參考に背景の誂へ書きを、寫して見ませう。
「柳老ひたる桂河の磧、草生ひたる小丘の下には、水色の旗一と流れ、桔梗つきたる幕を張りて、暮れの風に煙一筋には立ちやらぬ、篝火がはりの焚火、ちよろちよろと燃ゆ、」
こういふ簡易な誂ヘである。故人はこれを描くのに、私の拙ない脚本を、幾度も讀直したといふ、これでなくてはならぬ、脚本を讀んでかゝる背景畫家が欲しい、今の所、讀んでかゝる人は少ない、いや讀ませて書かせる興行主が、ないのである。これが背景畫家の煩ひだ。(完)