忠實と不忠實の寫生

戸張孤雁トバリコガン(1882-1927) 作者一覧へ

戸張孤雁
『みづゑ』第九十
大正元年8月3日

 暑中休暇の時期、山間に海濱に其他思ひ思ひの所に避暑する讀者も必ず多い事と思ふ、夫して日々の日課の内には寫生なぞ試る人もあらうと思はれる。で私は割合に考ヘる暇のある此の休暇期を幸ひ、少しく諸士に考ヘてもらひ度いのである、夫は忠實と不忠實の寫生と云ふ事夫である。
 近來眞面日の寫生とか、不眞面目の寫生とか、忠實とか、不忠實とかいふ言葉を人がよく用ゐるやうであるが、然し不幸にして夫が私の考ヘて居るのと大分相違してゐるやうである。世人の多くが云ふ忠實と云ふのは、目に映ずる物夫れ丈を寸分相違なきやうに寫生する事で、あだかも無神經の鏡面に映ると少しも違はぬ夫で、夫れ以外は如何に忠實に寫生しても不忠實と云ふ内に打込み、情緒なぞの寫生は全く顧られないのである。今私が諸士の一考を希望するのは即ち此の點である。
 稻穗を渡る風も、只徒な人には何の事もなく只稻穗を渡る風、夫れ丈に過ぎない。然し自己の内容の豊富の人々には、とうてい斯く單純視丈では濟されべきものではない。夫所に種々なる自己、人間に近き情緒を見出すであらう。解し易く例せは森の綠葉も或る人には只單に靑い丈のみに感ぜらるゝ物ではなくて、太陽の光線にある赤も、靑も、黄も其他樣々の色彩が其所に見得らるゝであらう。私の忠實とか眞面目とか云ふ夫は、人間の感能により深く擴く接近した點を影に藏する夫れに冠する物であつて、前者の如く無神經の鏡面夫れではない、尚一層之れを解し易く説明して見やう。
 宇宙に存在する物を見て吾人人間が名稱、定義を決定して居るものが、他の社會、即ち他の動物なり、植物なぞの社會から見て又同樣の名稱なり定義なりを認めらるゝであらうか。必ずや此の間に甚しい相違があらう、然らば人間の感ずる事の出來る自然は、人問の解しやうであつて他のものゝ認める自然ではとうていないと云ふ事が斷定出來る。
 然らば世人の云ふ自然の寫生と云ふものも人間の解釋、符牒であつて、自然其物ではない事がわからねばならぬ。之れが解る事が出來た時、自然の寫生と云ふものは吾人人問に、より近きものでなければならぬ事となる。人間により近き物とは各人の最高感能に共鳴する事の多いと云ふ事である。此の其鳴の點が深甚なる藝術程偉大なる藝術品と云はるゝ事が出來るのである。
 私が此の休暇に際し諸士に希望する夫は、此の點で、鏡面的ではなく、眞に人間らしい覺悟を持ち、多くの人に共鳴し得る自然の寫生をされん事である。諸士が男女の農夫、其他の人間又は山林、樹木、波濤なぞを見らるゝであらう。夫れを感ずる夫れは夫の物に、より近い諸君各自の解しやうで、其物の自身の心でないと云ふ事を忘れてはならない。之れと共に現された作品其物は、各自の感能の分量の富豐なる丈け、夫れ丈け影に確實さと、吾人々類の心に共鳴が多いと云ふ事、之れも忘れてはならない。用意なく只慢然と形を寫した自然の符牒ある寫生には、此の用意の多く缺けてゐる事は理の當然である。
 以上をつゞめて云ヘば物を鏡の樣に寫すのが吾人の藝術に對する目的ではなく自己を透して其物を握むと云ふ事である。要するに自己を忠實に握む事夫である。シャバンヌやロダン等の素畫は此の意味で充分研究の價値があると信ずる。
 (若し本文中に解らぬ樣な事があらば春鳥會に紹介さるれば出來得る丈の説明をします)

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