主觀の擴充に就て

山宮充ヤマミヤミツル(1890-1967)

山宮充
『みづゑ』第九十
大正元年8月3日

 あらゆる藝術上の議論や疑問の核心と成つてゐるのは常に主觀の問題である。
 吾々が、例ヘば、繪の製作に方つて何か不滿を感じ、その鑑賞に際して不徹底な場合には、いつも吾々が自己をネグレクトしてゐるか、若くは主觀の問題まで掘り下げてゐぬ樣に思ふ。古來幾多不滅の傑作の作者と云はれる人々は皆強烈なる主觀の所持者であつた。優れた作者に取つて、表現の方法は第二義的のものであつたに違ひない。表現は緊張したる主觀の表現性――創作活動――かう自然に生れて來る、從屬性のものだからである。この意味に於て藝術は生活の斷片であると云ひ得るのである。この意味よりして作品を通して作者を護ることも出來、藝術の嚴粛も唱ヘられ、而してまた不眞面目なる、精神を失へる技巧家の努力も徒爾に歸するのである。
 遠い希臘の昔から立方派の今日に至るまで、幾人の畫家が生れて幾枚の畫を残して去つたか知れない近く二三世紀の過去を振返つて見ても、吾々の耳になしたなる畫派に、尚古派、浪漫派、寫實派、外光派、印象派、後印象派などがある。それに最近に立方派の新派を加へて、その作品のカタローグを繰るとは愚か、一々の作者の名前を擧げるのも煩はしく思はれる。併しこれらの各派に屬す幾多異れる傾向の畫家を通じて人々を動かすものは、常に強烈なる色彩の作者の主觀であつた。個々の作品は、作者の主觀の不同なるに依て、それぞれ異るの當然なると共に、個々の作品に對する好惡の感じも觀者の主觀によつて違はねばならぬけれども、優れた作品は好惡を超越して、常に觀者を征服する偉大な力を持つてゐる。これが即作者の主觀の力即個性の力、人格の力である。
 例へば吾々がよく個性の尊重すべきを唱へつゝ、尚自分と違つた傾向の作者の作物に對して感嘆し得る所以はこの主觀の力の偉大なるを示すものである。又吾々が同時に浪漫派や外光派の作品に感じ、印象派のモネーや、後印象派のゴオガンやセザンヌや、寫實的のリーダーや乃至はコオーゲラーだとかルノアールだとかの繪を讃嘆することが出來、ヴインチやラフアエルの樣なルネッサンスの畫家の作に動かされると共に、現英の詩人シモンズ氏が、「天と地獄の結婚」と呼んだ白樺展覽會のロダン翁の彫刻にも動かされるのは、吾々の多元的な感受性にも依るではあらうが、最も主として作者の主觀の偉大なる征服力によるは否まれぬ事實であらうと思ふ。
 この個々の作者に屬する主觀即個性の内容は奈麼なものであるか、個性はもとより各個人に專屬する特殊性を意味するのであるから個定的なものでなげればならぬが、また一面を變動し得べき性質のものである。即個性には先天的の部分と後天的の部分とあつて後者は修養經驗等自己の力に依て變動し得べきものである。ホイッスラーやセザンヌの樣に普通人には狂的と見える迄、特殊な性格を有つてゐた所謂天才と呼はるる人々は別として、普通人の個性には後天的要素が大分重きをなしてゐる。そして天才には虚偽その他の不純な分子の入る餘地なき迄に充實せる、晃々たる個性の白熱があるけれども、悲しいかな大多數の吾々は天才ならざるが故に眞摯なれと叫び、卒直に表現せよと唱ヘて絶へず馳緩せんとする自己を緊張させて行かねばならぬ。また更に主觀の擴充を唱ヘねばならぬ悲哀がある。
 それ故に吾々は修養しなければならない。吾々は常に高い標的に對つて努力して行かねばならない。雪舟を見よ、ホイッスラーを觀よ、彼等はいみじき天才ではあつたが、尚その傑作は皆高價なる努力に對する賠償でないのは無いでは無いか。その作物は彼等の涙がこもつてゐれ、彼等の生命を鏤めれ尊い嚴粛なものである。何等の定見なく、朝に印象派に即き、夕に立方派に行かんとする萍の如き現代のニキビ畫家は、天才の堅固なる信念に耻ぢて自己に立返ることを知らればならない。アプサントをあををりデカダンを氣取つて、天才の形骸をのみ趁ふに忙しき遊戯的の青年畫家は、早★自己の行くべき道に戻つて眞面目に精進すべきでは無いか。新運動に加はることが無いのでは毛頭無い。個性擴充のために各派を研究し之に學ぶは素より賛成である。また個人の要求は時に依つて移動し、古來畫界に生滅した各派を吾々一個人の生活の中に繰返すことは、進化論的解明を俟たずとも、吾々の經驗に依て分るのであるから、眞面目に各派を研究し學ぶならいゝが、輕卒無意味なる「模傚」は斷じて斥けねばならない。
 獨り繪畫に限らず一般の藝術に個性の尊重すべきことはもとよりではあるが、吾々は狭義な個性、小さな自己を懷いて早く貧しい殻を作りたくは無い。千年に一人、萬年に二人之を求むべき偉大な、あらゆるパッシヨンを含有して生れ出れ第一義の天才は云はずとも、或特殊なパッシヨンにインスパイヤされた第二義の天才でもない吾々は、常に自己の不足を思うて、主觀の擴充に努めて行かなければならない、これが吾々の光明であつて、また同時に吾々が天才に近き天才を解する唯一の途程でもあると思ふ。
 昨年五月號の拙稿リーダー氏評傳の中に「美術家の主觀擴充」なる自製の成語をつられて、之に就て何等云うて無いのを久しく氣にして居れが、今大下夫人のお薦によつて筆を執るに際し、自分は不完全ながら、このことを舒べ得たのを喜ぶと共に、拙稿を讀んで下すつた諸君に深い感謝を捧げなければならない。(七月五日)
 

この記事をPDFで見る