續三脚物語[五]

鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ

鵜澤四丁
『みづゑ』第九十 P.20-22
大正元年8月3日

 煩さいやうだが、もう一度寫生旅行の話をさして貰ひましやう。今は鮎の季節でもあるし夏の相模川ヘ主人等が參つたことを申上げて見たい。これも大下先生が御存生時分のお話です。相原村の金子先生といふ御醫者樣が主人の處ヘ書面をよこして丁度相模川の鮎もよし寫生方々遊びに來て貰ひたい。そして御迷惑でも一場の講演を願はれれば幸であるとあつたさちです。それから例の寫生會の連中ヘ主人が檄を飛ばしまして、一行に加はる人數が主人とも六人となりました。巌谷小波、大下藤次郎、久留島武彦、筒井年峰、太田南岳の五先生と主人とでした。五先生方は東京から、主人は立川から汽車で、八王子ヘ下車しました。
 其頃まだ横濱鐵道が出來てないものですから、八王子から相模川の上流小倉川の畔の窪澤といふ處まで乗合馬車で行く心算で馬車の出る處ヘ行くと、今日は原町田の市へ行つて日暮でなければ歸らないと情ない返事だ。
 愈仕方がないといふので、漸く一臺の俥を雇つて、これに一行の荷物一切を積まして、かくいふ拙者なども同僚と共に倖の蹴込みヘ投込まれて行きました。憐むべし主人等は三里の行程をおひろひとは、併し天氣は好し風はある、ぶらりぶらりとおでかけだ。
 やゝ單調な道ではあるが各自に談話に花が咲いて、思はず知らず御殿峠を登誥めて、とある茶店に憇つて風を入れることになりました。『おい俥屋、差詰車に積んだ荷物は安く積つて五百両がものはあるが、一行中で誰を打殺したら金を澤山持つて居さうだね』と例に依て南岳先生奇問を發して笑つて居らつしやる。
 流石の強盗面の俥夫も度膿を抜かれて、へヽッと苦笑する許り。『それはさうと昔は此の上あたりで、そんなのが能く出たもんですぜ』と調子を合せた。茶店の主婦さんが茶を酌む間に、そこに居た魚屋が菓子箱の蓋を明けて、急いで口の中ヘ詰込んだのを蹴込みから見て居たが、後で菓子代は無論置くまい。これからは下り坂であるから樂なものさ。主人や先生方は處々に點在する山家の屋根の上に一八に換えた亜鉛板の俗惡を罵つたり、その癖、山路の電信杜を懷しんだりして歩行いて居る。太田、久留島の二先生は、明日は馬入川の荷舟に便乘して東海道に下らうと意氣頗る昇つて、脚の疲勞も感ぜぬらしいやうでした。
 とかうする内に橋本べ著く。立場茶屋の前存通過しやうとすると、『金子先生へお出ではありませんか』と後から聲が掛つた。
 『おうさうだ』と主人が振向くと。『お出迎が參いつて居ります』といふ。金子先生の門生增田不佛といふ先生が出て來て主人に挨拶する『馬車でお出と許り思ふて居りましたに、御徒歩は恐入りました』といふ。『これも蓋し止むを得なかつた次第』でと主人がいふて居たやうでした。兎に角これからは俥を申付けますと、いふて居ると、生憎一人も曳子がないといふ仕末で、不佛先生面を喰つてお氣の毒樣の百萬遍を操返して、また一里、窪澤ヘ重い足を引ずる事になりました。
 一寸前例に依つて久留島先生を御存じない方もあらうと思ひますので、御紹介をしましやう。先生は雅名を尾上新兵衛と申上げて、と申すとムヽあの人かとうなづかれる方もありましやう。以前は少年ものゝ彩筆を振はれて居ましたが、只今では重に舌の人で、例のお伽倶樂部の主幹で厶います。先生のお伽話は天下一品ださうで。
 さて相原村から不佛先生が東道の役、廣い廣い麥隴は其昔柴胡ケ原といふて漢法醫藥柴胡の産地であつたとか、彼方に見えるのが、城山、またの名が寳の峰と申しますなどゝ饒舌つて行く。
 お伽話の巖谷、久留島の両先生は寳の峰は可いなと酷くお氣に召したやうでした。
 ふと時計を見た主人はもう午後二時だ。道理で、腹はすく、足は痛む、汗は出る。南岳、年峰の兩先生などは分けて遅れ強ちでした。それあの森の下が窪澤だといふと、急に元氣が出て、ヘんもう三里もあれば可いと南岳生ヘらず口。いやあの森は違ふとなると、おやおやと開いた口が塞がらぬ仕末でした。
 兎角して今庶は窪澤に眞實着きました。
 千代本といふ料理屋が宿でした。
 金子、相澤、神藤なんといふ人々に導かれてその家の離亭ヘ通されました。かくいふ三脚子もその片隅に席も取つた次第です。主人等はこゝで冷水に汗を流し、茶に續いて、鮎の鹽焼にビールの出たのを召上つて居た。たしか近頃鮎が不漁と聞いて大いに落膽した先生方もありました。漸く午後三時に晝餉を濟して、これから川を渡つて寫生をしやうと一行六人が出掛けると、後から有志の面々十三四人引續いて來られる。窪澤を出外れると直に急坂です。主人等の疲れ足には氣の毒なやうでした。左手には瀧がありその下には大水車がある、いよいよ下ると横濱水道の大鐵管二本まで空に掛って居る。小倉川は兩岸は削るが如き絶壁で、河幅も廣く水嵩も多いが、水は多摩川に比して濁つて居る。宛ら水繪の筆洗の汚水の色に似て居るが両岸の茂りの色の映つて、不透明な緑色を呈して居る處は、繪にするには趣がないではないと主人等が申して居りました。
 對岸に渡つて處々を探したが、旨い處がない。光線の加減もある、一二時間後になれば必ず可い處があるが、それまでも待たれず、先生方は己がじし場所を撰んで私共を据えました。主人は頗る窮して、とある地藏樣に達摩があり、疸瘡神樣を祭つたさんだらなどのある處を寫生しました。見物のたかり方は恐ろしい程で、息もつまりさうでした、やゝもする★に塞り道具に觸はる。
 其内に大下先生は小流のある複雜な建物を描了つて主人の處へ來られたので主人は未製のまゝに止めて橋のある方へと參りました。小波先生は小倉川の大景か半ば描了つた處、南岳先生は地平線の高い橋を描いて居られた。久留島先生は寫生見物の籠を脊負ふた子供を寫して居られた。いよいよ日が落かゝつたので宿ヘ歸りました。
 例に依つて筒井先生が集合寫眞を一照されて、先生方はお風呂。
 それから繪ハカキ製造にかゝられると、白扇、絹地、短册、色紙と堆く持込んで、御迷惑ながら御染筆をといふのでしやう。ビールを飲みながら、筒井、太田の二先生は繪を、主人と巖谷先生は句を書いて書きのめして責を塞がれた。それから夕飯が了ると既に十時です。これから式場で一場の談話を願ひたいといふのです。また先生方は洋装となつて二階の廣問ヘ押上りました。窪澤及近郷の富豪、敎員、村吏等百餘名づらりと連んで、屋外にも物珍らしげにごやごやと人の堵をなして居る有樣でした。それから小波先生が連中を代表してお話をなすつた。それから懇親會に移りました。配膳の中に、主人と巖谷先生には句集二巷の撰評をといふのでした。久留島先生はこの撰評の間にお伽話一席辯じやうと、明亮な快辨を振はれました。話も喝釆の中に了り、撰評の結果の報告も濟むともう二時に近い。こゝで先生方及主人は御免蒙つて下の離亭へ引下られた。
 曉の四時頃にはまだ盛んに連中は飮んで居るらしいのでした。
 其内に南岳先生が別室から起出して來て、夜見ると色が大分違つてらと、頻りに繪具を塗つて居るのを見ると、驚くまい事か昨日主人が寫生した地藏樣の繪を御苦勞樣にも模寫したのではありませんか。それから後この繪は子供に縁故があるから、お伽倶樂部へ寄附してくれといふて久留島先生が強談で持って行かれたさうです。
 最早主人等も寝ても居られずと、朝飯前に一枚をと寝巻のまゝで各自に出掛けられて多くは建物を描いて歸つて來られた。また昨夜からの繪ハカキ製造が初まる。南岳先生は他人の繪を眞似るに物足らでか、今度は名家の席畫の身振り聲色をつかつて笑興じて居られました。朝飯が濟むと、今日は舟で寳の峰の下ヘ溯らうといふ計畫で、繪箱君や僕等は宿ヘのこされのあはれさ。何でも景色は非常に佳いさうでしたが、一向に消息が知れない。たゞその時に筒井先生が寫された寫眞が、今も主人の書齋にブロマイドに引伸したのが掛つて居ます。これは先年筒井先生が主人にわざわざ焦いてくだすつたのだそうです。それを見ると、寳の峰の麓でしやう、濃紫の岩石數を寫して、われ目にさつきが生へて燃ゆるやうな花が咲いて居る。水は緑色の油を湛えたやうに緩かに渦を巻いて流れて居る。こゝへ二艘の舟を繋いて主人や先生方が乗つて居られる。それから先生方が十二時頃に宿に歸つて來られた。するとまた繪絹、絽、白扇等を持込んで來て重々の御迷惑のやうでした。晝食をすましてこゝで仕立てくれたがだ馬車に鮨の如くに乗込んで、僕等は無論腰掛の下隨分ゆすぶられて、八王子へ着くと、東京行の汽車が丁度出る處、主人等は空明きの二等室を占領したは可いが、三脚子相變らず、その網棚の上。あゝくたびれた。

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