繪日記にそへて

こうし
『みづゑ』第九十
大正元年8月3日

 兼ねて自分は、繪日記といふものを、つけて見たいと思つてゐたが、筆不精なのでつい、のびのびになつてしまつた。尤も二三年前におほつかない筆で、珍妙なやつを、ものした事があつたが、三ヶ月ばかりしか續かなかつた、自分の樣に不精なそれで根氣のよはい者には、到底長くは續くまいからせめて短い期間だけでも、つけて見ようと思つて、昨年の夏、暑中休暇繪日記と云ふのを書いて見た。
 繪日記と云つても、繪が主なのか、文句が主だか、解らないのもあるし、又其處ヘ種々のものを書き入れたのもある、といふふうに、まとまりのつかないもので、まあ雜記帳だと思つて頂けば差支へあるまい。一體百分は、小供が好きなので、此の日記なども小供に關する記録が多いのは、豫め、おことはりして置く。それから成るべく原文を害はない樣にと思つたが、もともと繪日記なのだから、繪がなくては、わからないのもみるし、人に見せては、惡るい――惡るいと云つても別に秘密でもなんでもないから安心したまヘ。まあ露骨にいヘば、某に關する批評、悪口、さういふものは、其の人の名譽にかゝはる事だから、多少の添削を加へた。
 四十四年七月十七日晴
 赤羽の善坊(親戚の兒)今年五つといふをつれて、正滿寺へ參詣に行く。僕の兩親、並に兄の眠つてゐる暮の傍の樹木は、暫らく見ないうちに、青々と繁つて、?の宿となつてゐる。「誰れのお墓」と聞く故に「兄ちやんのお父さんのお墓」と云ひきかせば、しばらく考ヘて、「いゝや坊はお母さんが死んだのだから」と。
 善坊の母は馬つい先達この最愛の一人兒を殘して黄泉の客となつてしまつたのだ。僕は、この可憐なる言葉に思はず顏をそむけた。
 同十八日晴
 善坊をつれて淺草の觀音樣ヘ遊びに行く。休暇早々この天氣のいゝのに遊びに出かけるのは心ぐるしいが、母なき善坊が行かう行かうと云ふのを見ては、たまらなく、いじらしくなつて、とうとう行くことに決定した。
 同十九日晴
 月島ヘ寫生の場所をさがしに行く。
 同二十日晴
 大井より小姉上と、きみちやん(僕の姪)來る。僕の最愛なるきみちやんは當年七才で、來年から學校ヘ行くのだ。其の愛くるしい眼、ふくよかなる頬、しどけない口、ふさふさした黒髪、叔父の慾目か、なかなか美人だ、僕が大井の姉の家ヘ行く度にスケッチ、ブツクのモデルに成つてくれるのだ。きみちやんは相變らずハイカラと、りぼんと、そして繪をかいてもらうのが好き。此の夜、僕と三人で鈴木ヘ落語を聞きに行く。小さんのばなしは、わざとらしくなくて面白くなかつた。二人共とまる。
 同二十一日曇
 午前きみちやんをつれて兩國へ遊びに行く。午後より金森樣の説敎あり。此の日涼しくてよし、夕方姉上大井へ歸らる。「きみちやん、さようなら歸つたら、お父さん、お母さん、順ちやん、ゑつちやんに宜しく。それから、まる(犬)にも宜しく」。
 同二十二日曇
 呉服橋のそばで寫生をなす。
 同二十三日雨
 終日店ヘ出て怪談百物語を讀む。
 同二十四日曇後晴
 大井より大姉上えつちやん(僕の姪)をつれて來らる。人形の好きな、そして多辯なえつちやんは、差かしいのか、何も言はずに叔母樣に頂いた香袋を大事そうに手に持つて、、三階へ上つたり下りたりして遊んで居る。えつちやんは姉の末兒できみちやんと、善坊と共に僕の大好きな小供だ。
 同二十五日曇時々雨
 久しぶりで朝早く河岸へ寫生にいつたが、雨にあつて歸て來た。
 午後から丸の内ヘスケッチに出かけて、又雨に逢た。今日はよくよく雨に縁があると見えて、歸ると到來物だといつて水飴の御馳走だ。
 同二十六日晴風強し
 昨夜大暴風雨が襲來した。それが爲め州崎、月島、品川、大森其の他の海岸ヘ海嘯がをしよせて、家たをれ人或は死し或は行衛不明、惨又惨、此の前の出水よりも甚しと新聞に出て居る。
 午後報知社へ扇面展覽會を見に行く。此日荷物を脊おつたのや小供をつれたのやが、深川あたりから避難して來たのだらう、ぞろぞろと通つていつた。
 同二十七日晴
 月島が暴風雨の爲めにやられたので、僕が描かうと思つて居た處もおぢやんになつた。
 同二十八日晴後曇
 丸の内の繪を家で描いて見たが、裂いてしまつた。家で繪をこしらヘる事の不可なるをつくづく感へた。別に繪を製造しようと思ってやるのではないが遊んで居ると、ついいたづらをやつて見る氣になる。小人閑居して不善をなすかな。
 同二十九日曇
 曇たり、晴れたり、降つたり、いやな天氣だ。寫生には出られず、ぼんやり暮してしまつた。夜、來そうであつた西南の夕立雲は遂にこず、たゞばらばらと落ちたばかりだつた。
 同三十日曇
 隣りの家に美顏術と示ふ兄弟がある。朝から晩迄よくいたづらをする。然し今日は僕のモデルになつてくれた。美顏術本名を兄は時ちやんと云ひ、弟を繁ちやんと呼ぶ。其の家が美顏術をやつて居るので此の名がある。但しこれは僕の家ばかりの呼び名である。
 同三十一日曇
 店に居ると月末といふので諸方から掛取がくる。掛取の口上を聞きながら、新年會で自分が掛取になつた事を思ひ出して思はず微笑をもらした。
 八月一日晴
 望月、山口兩君よりの葉書が届いた。數多く來る手紙の中で、親しき友からのそれより温情の溢れた嬉しいものはないが、わけで籠城と覺悟を定めた身が、旅行先きの友より送られた手紙は一倍と懷しさが深い。山口君のには、赤城、瀧澤の兩君と葉山の加藤君の別荘ヘ行たが、繪はかゝず例の◎式を演じたと書いてある。(但し◎式とは當時研究所での流行語である。)望月君の文面は足尾ヘ相田君と來て居るが天氣が惡くてこまる云々と云ふのである。
 同二日曇時々晴
 日比谷公園ヘ寫生に行く。暑いので人が出て居なくて寫生には都合だつた。
 同三日雨
 肖像畫のいたづらをする。夜、久しぶりで五目ならべをした。
 僕大に景氣よし。
 同四日雨時々曇
 澤庵禪師とむらく落語集を讀む。
 同五日快晴
 此の間中、雨で商賣の出來なかつた大道商人は、久しぶりの上天氣といふので水天宮の緑日ヘつめかけるはつめかけるは、十一時頃には店を出す所がないくらいになつてしまつた。
 同六日晴
 日比谷公園で寫生をして居ると、後ヘ二人の小供が來て一人は學者がえらいと云ふ。一人は繪かきがいゝと云ふ。「そんならお前なぜ學者がいゝ」と一人が問ふ。「なぜつておまヘ、繪かきだつて讀みかきが出來なくちやならないだらう、そうすれば學者の方がえらいじやないか」「馬鹿いヘ、繪かきはな、一寸人が看板を描いておくれつていへば描けるしな、繪葉書を頼まれりやすぐ描けるだらう、そうすれば繪かきの方がえらいじやないか」と一人が云ふ。何方がえらいと此度は僕に問ふ。僕が無言で居ると又小供が一人來たのでそれに聽くと學者の方がえらいと云ふ。遂に畫家好きの小供はだまつてしまった。
 同七日晴
 寫生に行く時は暑い暑い實に暑い。両手に道具をもつてそれに汗が近眼鏡の間ヘ流れ込んで、眼鏡が曇つて一間先きも摸糊として見えない。當座の内こそ神秘的だなんて樂觀しても見るがこいつが眼の淵ヘ溜てぼたりぼたりと頬ヘ流れ出すとたまらなくなる。繁華な日本橋通りで一々道具をおろして汗を拭くのは何だかおつくうだ。大低は目的地迄我慢してしまふ。さて繪にとりかゝると苦しくもあり面白くもあるが、いくら、もがいても思ふ樣な色が出ないで強腹で強腹でたまらない。月を頂いて歸途につくとき、それが一日に於ける一番たのしい時だ。署さ苦しさを忘れて思ふ樣どなりながら丸の内の原ヘかゝる時、それが歸途に於ける一番愉快な時だ。
 同八日晴
 夜、例の美顏術兄弟と陣取りをして遊んだ。
 同九日雨
 久しぶりで研究所へ遊びに行つた。相變らず小供が大勢さわいでいた。赤城さんは丁度湯ヘ行つて留守だつたが暫らくして歸つてこられ、懷しい物語りはいつ迄でたつても盡きそうにもなく、いつしか夕方になつてしまつたので九月を期してわかれをつげた。
 同十日雨
 みづゑ等よむ。昨日よりの大雨で又々出水の號外が出た。
 同十一日晴
 日比谷で又新らたに氣に入つた場所を見つけた。
 同十二日曇時々晴
 日があたつたり、曇たりして何する事も出來なかつた。
 同十三日晴
 大奮發で繪葉書を四枚かいた。
 同十四日晴
 丸の内ヘかかると數人の土方が一生懸命に働いて居る。僕も彼等の樣に暑さと奮鬪せねばならぬ。あらん限りの全力を注いで勉強せればならぬ。人に無意昧な努力と笑ふかもしれない。然し僕は無意味な努力はやがては何物をかなす源だと信じて居る。無意味な努力はしたくない。描きたい時でなければ描かないといふ人はそれでよい。悲しい哉僕の現在はやつぱり努力主義、こつこつ主義を續けるより致方がないのだなあ――とこんなことをあるきながらかんがへて見た。
 同十五日晴時々曇
 夕方驟雨が襲來した。夜水天宮へ行つて見たが驟雨の爲めかあまり人出がなかつた。
 同十六日曇大風時々雨
 叉々颶風の襲來で號外が出た。
 同十七日晴
 延びに延びた煙火は此夜だ。三階の座敷はきれいに掃除されて客の來るのを待ち顔だ。勝手ではおはぎをこしらへるのや枝豆をうでるに忙しい。
 同十八日曇
 河合氏午前に來らる。午後より善坊を乳母車ヘ乘せて大川ヘ蒸汽を見に行く。
 同十九日曇後雨
 善坊をつれて上野の納涼博覽會を見に行く。
 同二十日曇後雨
 例の美顏術と善坊と仲よく遊んで居たが喧嘩を始めてはては二入とも泣き出した。ピスケツトは二人の間を又もとの樣に仲よくさせた。そして二人はたのしそうに旗かくしをして遊んだ。
 此日善坊赤羽ヘ歸る。
 (おはり)

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