寄書 故大下先生と石版印刷

遠田良助
『みづゑ』第九十
大正元年8月3日

 私は主として石版製版彫刻術に携はつてゐる者であるが、職業の關係から來るのでもあらう一般繪畫には多大の興味を持つてゐる、仲にも水繪は大好きで短時間の餘裕をこの研究に費してゐる次第である。デッサンの稽古は研究所。(水彩畫會)にその籍をおいてあるが、續いて纒つた研究が出來ないので、至極殘念である、せめては毎月の月次會へ丈けでも出席して、諸氏の新らしい作品にも接し多くの敎訓と有益なる刺撃とを受けたいと云ふ希望が、常に私の腦裡に滿ちてはゐるが、繁忙な工務は許さない。
 時々はウオークスのホーマーの石膏を出して、位置を定め木炭紙に尚つて素描をやることもあるが、休み時間は少ないので兎角思ふように勉強は出來ない、斯樣に私は至つて不規則な勉強をしてゐる譯だ。由來私達は就職中テーブルに向つで?密な仕事に努力するから、眼と頭の疲勞は非常なものである。
 されば終業後道具を肩にて、昨日は東今日は西と自然に親みつつあるが、感興が湧いて畫筆を握り遙かにその景色を寫生し勧めると、先程までのくさくした頭は夕立の上つた時のよーにさつぱりとして來る、★くなる、透明した樣な氣持ちに而も元氣が出て來る。こうして繪の研究は常に疲勞した頭腦を明晰にし、且つ愉快な感じを與へる、尚ほ其上自然に親しむの德としては健康を增進し、美術鑑賞の力を養ひ、觀察力をも養ふことを得る、あゝ繪畫の研究何と有益なことだらう。
 水繪!!自分の水繪を稽古するに至つたのは偶然でない、私等の職業に從事する人は必然の結果として、繪畫に趣味と深い研究心のある者でなければならぬ筈である、きらば繪畫の造詣深い人は製版上何か得る所あるかと問はば、無論あると答ふる事が出來る。
 即ち或程度までの繪の修養と同時に、製版の研究とを積んだ人でなければ、一の水彩畫とも云ふ繪の製版をしても完全なものは勿論それに近い印刷物は出來ぬこと、言を俟たぬとも明かである。故大下先生はこの行版印刷に大に注意を拂はれ、一面慥かに斯道の恩人である。且つて先生は、製版畫家の團體なる虹交會例會に左の講話をせられたことがある。
 『抑畫と製版とは實に離るべかちざる密接の關係を有して居る、之れに就いては諸君に伺ひ度事も澤山あるが、先づ僕の方から述べる事と致さう。昔(十七八世紀頃)は、繪畫彫刻小説類は一の娯樂の樣に思はれて頗る不眞面目の事の樣に感じられて居つたが、今日と成つては藝術は眞面目の物である、理性に協はぬものはドシドシ排斥せらるると云ふ有樣となつて來たのである。
 就中繪畫は人を動かすと云ふ點に於て實に大なる効力があると考ヘる、然して僕等は其趣味を普及するの目的を以て「みづゑ」と云ふ雜誌を發行して居るが、實に繪畫は會得すると云ふ點に於ては、文章以上の力ある事を認める、然して此繪畫をして多くの人に紹介するは印刷に依らねばならぬ、恰も新聞紙が社會の眼目と齊しく繪畫の印刷又然りである、然して版は其普及を目的とするので、版の種類も澤山あるが、木版は我れ等の方面には實用に適せぬ點が頗る多い、三色版は出來上りに於て少しも生氣がない、即ち器械的丈けに又一方に於て缺點があるのであるが、尤も適當して居るのは何かと云ヘば僕は石版に由るのが尤も適當であると思はれる。
 亜米利加の或富豪が、獵銃を製作させたが、亜米利加のよりは英吉利製の方が命中する點に於て遥かに優れて居る、如何となれば亜米利加は器械製作で、英吉利の方は人工製作であるから精神は充分に注がれて居るからである。と云つて居た相だ。
 成る程然るべしと思ふ、現に日本の正宗の名刀の如きもので砲兵工廠などで器械製作に由つて出來上つた刀とは比較にならぬと云ふは此道理であると思ふ、此理に由つて僕は三色版よりも石版を推す所以てある、此點に於て石版は立派な使命を有して居ると思ふ、即ち是は前提でこれからそろそろ悪口を云ふのである。
 さて三色版よりは石版の方が適當であると云ひ乍ら、何故に我みづゑには三色版を挿入して居るかと云はば、石版製版者の滿足なる者を得ないからである、尤も社會が安くつて急ぐと云ふ事情も今日の製版上に影響するのでもあらうが、一つには製版者に自覺心が乏しいからであると思ふ。
 曾つて虹(虹交會の會誌)紙上に畫家の製版家と云ふ題目の下に、製版家は實に椽の下の力持ち同樣であると云ふて居つた人があるが、僕に言はせれば夫れは大なる間違ひで、自身の職務を蔑視して居るのであると思ふ、凡そ何事に依らず自分の職務は誠につまらぬ棣に思ふので、畫家たる自分も決して樂ではないのであるから、其樣な人は寧ろ畫家になつた方が宜しからうと思ふ位である。
 次は製版家が畫を研究する事は必要で大に歡迎するのであるが、物事には一利一害のあるもので、或は原稿を批評したり訂正したりする者があるとのことであるが、抑も大なる間違ひであると思ふ。夫れよりも製版家は其職務上の範圍内に於て、働いて貰ひたい、即ち製版家は畫を亂用せず製版の進歩を助けると云ふ意味で研究して貰いたいものである。云々(四十三年頃)又丸山先生も大下先生ど同じく前記團體の賛助會員であるが、會員に左の話をせられたそうだ。
 「製版者の態度が露骨にいふと職人的である、先づ第一に職人的態度を改めて高尚なる品位を涵養して人格を作らねばならぬ。人格と云ふものは何れの製作物にも現はれるものである、一流の大家といはるる人の描きし名畫を石版術を以て現はす上に於て、人格なき人の製版は如何に巧妙に出來て居つても品位といふのが峡けて卑しいのである、これでは製版者の上乘とは宥きぬ。そして製版と云ふても其範圍は仲々廣いものであるがこれを大別して二とすれば(雅のもの)(俗的のもの)となる前者は無論人格の伴ふものであるが後者とても無論人格を存しなければならない、そして又或下圖を元としてそれを製版するのと自ら考案した圖を製版するものとがある。前者はどこまでも元圖通り聊かの相違も無き事をつとめねばならぬ、然るに製版者に依つて各々異つたものが出來る、こゝに其人の人格も品位も現すといふ上に於て聊かの私を挿し入れない樣にして貰ひたい即ち客觀的にして貰ひたい、然るに、或者は大家の畫に對して自分の考を加ヘ、自分の畫でも製版するつもりでこしらヘるのであるから、元圖とは似ても似つかぬ樣なものが出來る。
 自分も今日迄澤山石版の原稿を描いてこれを石版摺にすると、一として氣に入つたものはない、幾度校正しても滿足だと思ふた事は、殆んど一度もないと云ふても差支ヘない。そこで比較的佳く出來たと思ふ畫の製版者を聞いて見ると、其人は人格の高い人である、この邊は大に製版者に望む要點である、かく云ふと製版者其人は、必ず答ふるであらう、それは製版費を思ふ程出してくれないから不得止ないから惡いものが出來る。
 然し之れは大なる間違ひである、手腕と人格等は加何に手をぬくとも、如何に費格が少しとも、之等に聊かの關係はない筈である。そして第二の自分が考案したる圖畫の製版は自分の思ふまゝに作らねばならぬ。前者と後者と別々にして、一致してはとても佳作は出來ない、この點に於て製版者の畫を修むる必要がある、濃淡、色彩、及び色の調和等は無論知らねばならぬ、又自然に遊ぶ上に於て、人格品位等を養ふは、是非共繪畫を修むる必要がある、そしてまだ云ひ殘したことは原畫は自分よりまづいと思ふても、それに自分の意を加ふると云ふ事はよろしくない、まづい畫はまづい畫のまゝに現はして貰ひたい、まづい繪がまづく現はれたら製版者の上乘なる妙技である。」云々以上の御高説に依れば、結局製版者の滿足なる者を得ぬから從つて完全なものは出來ぬと云ふ事に歸着するように思はれる。
 詳しく辨明したら頗る複雜な事にならうが、又製版者側からも申し上ぐれば色々と問題もあらう。
 故先生の御説に一寸申し上ぐるとすれば、製版者の修養やその原稿の色數よりして、大體のトーンに注意する人もあらう、又そうでなく細いトーンやタツチに非常に重きをおく、人などのある爲め、製版の結果として印刷したものは、或はうるさくなつたり、或は締ないものなどが出來ます、即ち製版者の原畫の製版に際し、望む丈けの色數が充分でないから、得心のものは出來ぬと云ふも一の原因をなしてゐる。例をあぐれば三色を用ひて七色位は何の苦もなく紙やパレットの上にも亦印刷術の上にも發色はするが、原稿に用ひてある色は千差萬別で八色位用ひたき物に對し五六度位にて印刷すること珍らしくはない、之れは無理な仕業である、從つて色を倹約しても一見原とは似るが仕上りが甚だ汚れものが出來るわけである。(印刷術に依つて)されば製版者は原畫を手にして請求する色數は、少なくとも原稿と寸分違はぬものを製版する考の上からするのであるが、注文者は仲々之れに應ぜぬらしい(之れは色數が多くなれば製版上にも印刷上にもその結果として費用がかゝるからでもあらう)されば安くつて良いものを望む譯となるが、之れは無理な話だらうと思ふのである。
 製版者の中には、或は自己の考を入れで訂正する者はないともそれはいヘぬが、原稿に對し八色用ひたきに五色で是非、と望まれれば結果として仕上の物は却つて訂正のように見えることもある、今日では自己の意見などを用ひて初めから訂正する人などあるだらうかと疑ふ位であるが、まゝデザインなど注文者から指定して來た場合は、技術者としてその意を用ゆることもあるのである。
 さればこの色數の少ない、と云ふ點は實に苦痛な次第である、腦力を用ひても必ず結果は知れてるからである、尚之れまではその校正を概して注文者がしたように聞いても居してももらったが、今日では畫家自身が見られるよう一般になつた樣であるが、之れは誠に結構なことである。故に今にに夢二氏作品製版家ミ氏作品製版家と云ふ人が居るかも知れない。私は前記團體の會員でもなく、該術の修養も至つて淺いが、秀英舎の石版部にゐてみづえ挿畫の製版印刷したことも覺えてる、又故先生や其他の大家の繪やデザインも大分製法した、未た仲々一言に技術家を批評など出來ぬ。而し丸山先生の申された職人的と云ふ觀念は餘程はなれてゐる樣に思ふ。些細に翻察を遂げたらどうか斷言は出來ぬが、所謂高潔なる品位を備ヘてゐる人物も漸次多くなつて來てると云ふことを書いておきたい。それで兩先生の御意見は當時、否今でも有益な文字として拜見してるが、兎に角私等側から簡単にその満足なものの出來ぬ理由を書いて見れば、(一)原稿としての繪畫を、石版印刷に附するにあたり、製版する爲めに該技術者の望む丈けの色數を用ひせしめざる事の多き事。
 (二)概して製版技術家の作業時日の充分にあらざる場合が多き事。
 (色數が充分でないのにかゝわらず技術者は成丈け良いものと、即ち原通りにと務めるのが既に苦心なるに、今又更に早くと云ふ場合の多きは實に苦痛である。)
 (三)製版術と印刷術とは直接の關係はあるが、その技術上に於ては全く分業になつてる、今日に、その印刷術の完全にあらざる、即ち換言すれば、印副者の頭腦の確實なる斯道に於て眞面目にして経験あり、研究的態度ある熟練の良工の至つて少なるもその一原因となすをとを得る。
 印刷の場合となりてはそのやり方に色々あるが、手刷と(機械ではあるが人は一枚々印刷するものなり)ロール印刷の二種とすれば(後者は數多きものゝ印刷の際に多く用ひられるが、これは或手數を施すとあとは殆と自然に印刷の出來る仕方なり)前者は少部數後者は大部分の印刷に適してゐる故に前者はその際手加減はどうてもなるが、後者は仲々そうは行かぬ。雜誌の口繪などは多く後者の仕方に屬するであらうが、後者は機械的丈けに精神もこもらないのである、然らば前者の仕方にすべしと云へば大切な時間に大なる相違があるからそれは出來ぬのである。
 大略右の如くであるが、何はともあれ之に依つてこれを見れば藝術上の作品をそのまゝ社會に紹介する爲め印刷に附すべく、製版する人、印刷する方は常に人格の高上を計り、技術の研究と云ふ點に大に重きをおくべきであるが、個人としての人は別として、一大工場になどに作業しつ、ある人々に於ては、その會社が全々營利的にして、研究室などの設けなき時は又困るのである。現今は實にこの研究室などの何處の工場にも置かねばならぬ話であらう。
 以上に依つて見れば未だ未だ前途は近くなく、故先生や丸山氏の申された言の如く、滿足なプリントを得るに至るには即ちみづゑの巻頭に三色版の變りに石版刷を以てする時は決して近くはないのであらうと思はれる。
 彼の洋畫家、水野以文氏、池田永治氏、松原一風氏、鈴木錠吉氏、石井拍亭氏、磯部忠一氏、森本茂雄氏、織田東禹氏、藤島英輔氏等は其前に彫刻や製版術を又は現に該術を研究せられて居る方々であらう。
 私は昨年研究所へ行くことになつてからは折を見て、故先生を訪問し、親しく製版上の御意見もくわしく伺ひ、尚自分の製版物に就いては何かと御忠告もして戴かうと思ふておつたが、豈計らんや十月十日、突然御逝去なされたので自分もあヘなく雜司ヶ谷に御葬送すべき一人となつた悲しさ、誠に我國洋畫界の爲め、印刷界の爲めに千歳の恨事と云はればならぬ。
 それで今は只故先生は多方面に力を盡された内、この石版印刷の發達にも非常な恩人であつた、と云ふことをあらゆる世人に云つておきたいのである。

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