寄書 殺風景に非ざる東京
愛讀生
『みづゑ』第九十
大正元年8月3日
自分は?々學者先生の言葉の内にわけも無く東京は殺風景だ、醜だ、と云つた樣な文句を見聞していつも其の無趣味な事を憐れに思ふのであるが、しかも此の言が美的趣味の標榜者たる美術家の口に聞かうとは、誠にけしからぬ事だと思ふのである。
或る夜のすさびに自分は本箱から古い美術雜誌を取り出して讀むでゐた、其の中忙或美術家が斯云つてゐる、即ち田舎の嗜好者の特権を賞讃して、『殊に地方の研究家は俗塵を離れて深く自分に接する利益あり、此頃の東京は殺風景、無風流、只錯然として何等の美なく、何等の調なく、全く美術家の棲むべき地に非ざるを思はしむ』と其頃から見ると近頃の東京は美しくなつたのか知らぬが、自分は何しても右の言を信ずる譯には行かなひ。
勿論吾々は樗牛が『自然を忘るゝは即ち人間を忘るゝ也、詩歌小説は所謂吾人をして自然を追憶せしむるものに非むや』と云つた樣に自然に大なる敎と、幸福を受ける以上、純なる自然を追求するに决して人後に落ちなひけれとも、抑此觀念こそは人間として生をうけた者の、一人として持たぬことのない先天的の特性なのである。それで自分は其れを當然の事だとして見ると同時に、尚我等は殺風景をも轉じて有風景となし、醜を變じて眞の美となす所以は、★ち此の美的思想の養精にありはすまいかと思ふのである。しかも人工的な都會の内にも、また他に求むべからざる美點の存せるを知るものである。
其の證據には試みに畫樓嚢を擔つて一度東京の郊外に逍遥つて見るならば、大概の人が淸新なる田舎の空氣を心地よく味ふ一方に、あの混雜した濁つた都會の響を遠く武藏野から雜木林のかなたに望むとき、如何にも其の複雜な強い色彩をしたはしく思はない者があらうか。
最早其時自分等は都會を戀ひ慕ふのである。いはゞ故郷なのである。
若し夫れ日比谷のほとり、暮れ行く空に麗しい煤煙のみなぎりが、レネツサンス式建築と好調和をあらはす處、蓋し之東京にのみ求められる美しい印象であらうと思はれるのである。
それ計りではなひ世の中は次第に多事となり、勢ひ分業が行なはれて事業の興味は愈々乏しくなる、さらぬだに田舎にも行き得なひ憐れな人々に、尚多くの樂しみを與えるものが美的趣味であり、尚旦或るものを求めんともだゑつゝある人々の前に、此の人生の崇高をば具體的に見せしむるものが、藝術の大使命とすれば、其處に美術家にも大なる責任かありはすまひか。
それで自分は東京は殺風景だからと行つて田舎にばかり逃こむのが、必ずしも美術家の務でなひばかりでなく、東京の風流をも未知の人に了解せしむるのか、畫家否繪畫趣味普及の必要だと信ずる。
自分にあくまで自然を慕ふが、而し都會にある間は其處に美しき佳境を見出さむとつとめ度い。
此頃の東京は僕は决して殺風景だとは思はない。